エジプトに来たら行っておきたいスポットのひとつがエジプト考古学博物館です。
入り口は列に並びます。
この国はうかうかしていると横入りされることが多いので、強い気持ちをもって列に並びます。
うちの三兄弟を見ていても思うのですが、あとから生まれた第二子や第三子は長女が話している最中に割り込んだり、おもちゃなども横取りして遊びます。
エジプトを途上国と言っていいのか微妙なところはありますが、何かこう「追従者(もっていない者)」はなりふり構わず自己主張する雰囲気があります。それが良いかどうかはさておき、持たざる者の戦略なのかもしれません。
途上国に来るとガンガン声をかけてきますが、彼らは声をかけることで「失うもの」よりも「得るもの」のほうが大きいのでそのような行動ができるのだなぁと改めて感じます。何かをしようとしたときに「失うもの」ばかりに意識がいって消極的になっている場合ではないのかもしれません。特に今後の日本は
— にしけい (西田 圭一郎) (@nishikei_) March 31, 2022
彼らに比べると僕もまだまだ右側(消極サイド)なのだなと思うと情けなくなりました。家族もあり、仕事もそれなりにいただけるようになり「もっているもの」ができたがゆえに「失うもの」に意識がいって積極的な行動があまりできていなかったなと思います。反省。保身に走ってる場合じゃないっすね。
— にしけい (西田 圭一郎) (@nishikei_) March 31, 2022
「もっている人」は博物館に入る前に荷物を預けることができます。入って左側にある建物です。
預けられている荷物を管理するおじさんがひとりいて、管理がガバガバゆるゆるで少し不安になるかもしれませんが、いちおう預けた荷物は大丈夫でした。
博物館は広いですし、とにかく動き回るのでなるべく身軽な荷物で訪れることをおすすめします。
博物館の中はスマホでなら撮影自由です。
石像とヒトの普遍的性質
とにかく博物館内は無造作にいたるところに石造(Statue)があります。
おそらくかなり貴重なものでも、無造作にゴロゴロ置いてあるので、見ている途中で「貴重さ」の感覚がバグってきます。
これ、日本できちんとガラスケースに入れて展示したらもっとありがたがってもらえるのではないかと思うものも、テキトーにゴロゴロ並べられています。
古代エジプトでは大きな石造を使った「巨大コックリさん」みたいなことをしていたらしいんですね。
犯罪者の裁判も「石像が右に動けば有罪、左に動けば無罪」みたいなことをやっていたらしいです。実際は石像を動かしていた中の人がいたらしいので、儀式的な意味合いが強いのかもしれません。
「(神を模した石像が)あなたは有罪だと言っている!」と言われれば、なんとなくみんな納得したのかもしれません。あとで恨みつらみを買うのが嫌だったから、王が直接ジャッジせず石像がジャッジしたことにしたかったのかもしれません。
こういった虚構の人格や存在によるジャッジは古今東西いろんなところで行われていて、「株式会社」とか「宗教」とか現代だと「AI」とかそういった第三者が人を断ずるというのは今も昔も変わらないようです。
博物館内に展示されているものは何千年前のものなのに、人間の本質的な部分は変わっていないんだなと思うと急に親近感が湧いてきました。
「遊び」は本能?
そのひとつに娯楽品である「ゲーム」がありました。
エジプト初期王朝時代の出土らしいので、3000年か4000年前からエジプト人はサイコロで遊んだりしてたようです。
「遊ぶ」というのは一見無駄なように見えますが、こんなにも太古の時代から人々はゲームで遊んでいたことを考えると「娯楽」では片付けられない普遍性を感じます。もしかすると「遊ぶ」というのはホモサピエンスがもつひとつの共通特性なのかもしれません。
こんな展示物を眺めていると「遊んでばかりいないで勉強しなさい!」とか「あいつは遊んでばっかりだ」と指摘するのは不毛な気がしてきました。
ミイラもゴロゴロ
石像以外にもとにかくミイラが大量に保管されています。
短時間でこんなにたくさんのミイラを見ることも人生ではあまりないので、ゲシュタルト崩壊しそうになりました。
人間だけではなく、犬・猫・ワニなどのミイラも保管されていて、そこまでして「保存したい気持ち」って何なんだろうと思いました。
下図はアリストテレスの四元素分類を少し変えた図ですけど、何かを保存する上では「乾」と「冷」が最適です。
僕はアマノフーズのドライ味噌汁シリーズが好きなのですが、非常食や長期保存させるためには「乾燥」しているほうが有利です。南米のマチュピチュ遺跡を見に行ったときもジャガイモを乾燥させて保管していました。
永久凍土や精子や卵子もそうですが「冷たいこと」も「保管」につながります。
逆に「熱」「湿」という環境は保管に適さないことになります。熱帯のような蒸し暑い環境です。これはこれで変化や発育を促しますから「姿形を変えながら残していく」というスタンスなのかもしれません。
Aのフェーズは僕の中では「寂しがり屋」「人恋しい」「かまってほしい」という人が長期滞在しやすいフェーズだと認識しているので、こうしてたくさんのミイラや石棺が残っているということはエジプトは右下(A)の要素が強いのかもしれません。悪く言えば「止まったまま」という感じでしょうか。
パピルスもたくさん残っていて、保存技術への飽くなき探究心はすごいなと思いました。
「残そうとする」ということは「残すこと=正しい」という考えが前提にあります。独善的というか、お節介というか、自分達の存在や主張は間違っていないという確信のようなものがあるわけです。迷いがないわけです。
ここまで自分の行動や主張に迷いがないと言い切るには「盲信」のようなものが必要だろうなと思いました。曖昧で不完全なものではなく確固たる完全な盲信です。
逆に考えると、ここまで手の込んだ盲信を作り込まなくてはならないぐらい自信がなかったのかもしれません。石像やパピルスが立派だからこそ、残っているからこそ、残した人の心の弱さのようなものを感じました。やっぱり人間は人間でした。
「残る」と「残す」はまた違うものだよなぁとか、いろいろ考えながらブラブラと見学しました。
この博物館には「残そうとしてきた人たち」「守ろうとしてきた人たち」の思いがベースにあるはずなのですが、あまりにも無造作に置いてある展示物などを見ると、対照的に見えて少し滑稽だなとも思いました。
ツタンカーメンはマジで必見
考古学博物館の2階にはツタンカーメンの装飾品などが展示されているスペースがあります。
このスペースは撮影禁止なので写真は残っていませんが、とにかく一見の価値ありです。
このスペースにくるまでの間にたくさんのミイラや装飾品や展示物を見たので「あ、またミイラか」みたいな感じで頭の中が飽和するんですね。途中で眠くなってくるというか、中だるみするんです。
しかし、最後の最後にこのツタンカーメンブースに行くとその気だるさが一気に吹き飛びました。段違いに美しく、他の展示物とは格の違いのようなものを感じさせてくれます。
僕が行ったときは多少人混みがありましたが、今後より海外旅行しやすくなってたくさん人が流動し出したら、あのツタンカーメンブースはゆっくり見られなくなると思います。
あまり装飾品や美しいものを見てワーキャーいうタイプの人間ではない僕ですら、あのツタンカーメンの装飾品・宝飾品はうっとりとずっと眺めていたくなりました。なんかね、魔性を秘めている感じなんですよ。あれは言葉にできない美しさがあります。「ツタンカーメン」が世界的に特別視されている理由がわかった気がします。トルコのトプカプ宮殿で見たスプーンのダイヤに匹敵する魔的な美しさでした。
考古学博物館は現在展示されているものが全てではなく、けっこう展示物を入れ替えているそうです。あのツタンカーメンの宝飾品が見れなくなる…という日もくるかもしれないと考えると、見ておいてよかったなと思いました。
なんとなーくですが、またエジプトに来なければならないイベントがあとで起きそうな気がしました。
旅は続く!!
にしけい