どんなに本を読んでも、どこまで教わっても、無限に終わることのない深遠さが深まるばかりで、知れば知るほど知らなかったことが出てきて、自分の無知さに辟易とすることもあれば、やっぱり知らなかったことを知るのはとても楽しいです。
そして「知る」と「理解する」は似ているようで全く別物であるとつくづく感じるのですが、やっぱりこの「理解する」というものに関しても無限を感じざるを得ません。
「知っているもの」の中にいくつ「理解しているもの」があると言えるかわかりませんし、もしかすると本当は何も理解できていないのではないかという恐怖に襲われることもけっこうよくあって、そのたびに本を開いては答えになりそうなものを探す日々です。
僕はたまたま「占い」という穴から掘り始めているのですが、ちょっと掘ったところでまた新たな分岐点が出てきたり、気づいたら自分の後ろにかきあげていった情報の土砂をまた掘らざるを得なかったり、本当に何をやっているのかわからなくなってしまうこともあります。
無限の穴を目の前にして振り向くヒマなどない
このような無限に続く穴掘り作業において
「あいつは掘るのが足りない」とか「最近の若いヤツは2、3回聞きかじっただけで占いをやってる」とかそういう言葉が漏れちゃう人がいますが
正直「無限の穴」の存在を認知しておきながら、掘り始めた人たちを攻撃するのってちょっとどうなのかなと思うのです。
聞きかじっただけでやってみる、というのは確かに「準備不十分」と思われるかもしれませんが、ではどこまでいけば「準備十分」なのでしょうか。僕には分りません。
また、実際に「占ってみる」というのは書籍や座学以外では得られない情報が得られます。
さらに、実践してみることで「いかに自分の勉強が不足しているか」ということを痛感できるというメリットもあります。
実践に出ることではじめて座学のありがたみや重要性が分かるのです。
なので僕は「2、3回聞きかじっただけで」もやってみればいいと思っています。
それはサービスを受ける側に対して不遜の振る舞いなのではないかと思う方もいるかもしれませんが、先述したように無限に続く穴を前に「サービスの基準」はありません。
サービスを受ける側も自己満足であれば、サービスを提供する側もまた自己満足なのです。
僕もよく「以前、他の占い師さんに見てもらったのですが、これで正しいのでしょうか?」と言う依頼があります。
図面や鑑定書を見ると「ああ、なるほど」と分かるものもあれば「なぜこのような判断をしたのか?」と思うものもあります。
前回の占い師さんが手を抜いたとかは判断しようがないのですが
少なくとも「そのときの」全力の知識や情報をもって対応していると思いますし
それに対して対価を払ったのであれば、「そのときは」お互いに満足していると思うのです。
なので「数回セミナーを受けただけで占い師として占うな」みたいな議論は不毛なのです。
そして「アイツは掘り下げ方が足りない」というのも「無限の穴」の存在に気づいてしまった人であれば口に出来ないはずです。
書籍や座学による研究は確かに重要です。その重要性を噛みしめ継続するためにも、わからないけれどやってみて自分の不甲斐なさを痛感し「無限の穴」の存在を常に意識し続けることが大事だと思います。
僕を含めどんなに凄そうなことを言っても所詮、人間は人間なのだなあとつくづく思う。現実を見る。悲観論じゃなくてフラットに。
— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年7月19日
凄そうに見せなきゃいけない場面もある。虚勢を張りたいときもある。自慢したいときもある。
それはそれでいい。でも、そういう状態であるということを忘れてはいけないなぁと思いました。— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年7月19日
師弟関係と秘密主義が作り出す「わかってもらえなくてもいい」風潮
実はこの「他の占い師や流派を批判する事象」は、占い業界ならではの特殊な環境が背景にあるからこそ起こりやすいと思います。
ひとつは、秘密主義です。
知識や技術を用いると人の生殺与奪にも関わります。占いが戦争の道具にも使われてきており、限られた人々しか「知らない方がいい」とされる情報もたくさんあります。
これが占い業界特有の閉鎖的な空気を作り出しており、この雰囲気が「わかってもらえなくていい、自分さえ分かればいい」という考えを加速させているようにも見えます。
さらに、占い師個人の話でいうと、占いで食べていくためには「すごい」ことを分かってもらう必要があります。その「すごい」にはいろいろあるのでしょうけれども「他の占い師よりも知っているぞ」ということをアピールしなくてはなりません。
それゆえなのか、明治〜昭和初期に書かれた占い本は結構エグいぐらい他流派批判をしているものが多く、かなり露骨です(今もありますけど)。
他者との差別化、他者と比べた優位性を示さなくてはならなかった時代が背景にあるのかもしれない。示さなければ、食っていけなかったのかもしれない。
— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年7月25日
占い師は「先生」とか「師」とか言われるぐらいですから「威厳」みたいなものを誇示してナンボみたいなところがあったのでしょうね。
戦前後も強烈な中央集権的な風潮があり「他者基準」が明確なだけに当時は占い師同士の競争が熾烈だったのかもしれません。
で、その時代を生き抜いた占いの先生方に習っている以上「他の流派や考え方」を否定するクセが弟子たちに染み込んでいくのも自然な流れだと思います。
そうか。他の流派や考え方を否定するクセがついている人は、否定するように「習ってきた」わけか。
それとも元々否定クセがある人がそういう先生に引き寄せられるのかな。— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年7月24日
誰だって自分が習っている師匠や先生が最高だと思って習いにいきますし、そう思いたいはずです。それにやっぱり先生や師匠と呼ばれる人と長い時間一緒にいると、考え方や使う言葉が似てきます。
僕自身も説明の仕方が師匠に似ていると妻に言われたこともありますし、教室の生徒さんには「にしけいさんに話し方が似てきました」と言われたこともあります。
それぐらい惚れ込んでいるからこそ弟子入りするし、教室に通うのです。
ですから、その師匠が「あの流派はダメだ!」とか「あの占い師は掘り下げ方が甘い!」とか言っちゃうとそれが自然と刷り込まれていき、現代でも他流派批判や他の占い師批判が続いているのだと思います。
で、この「先生」とか「師匠」と呼ばれる人をどうやって選ぶかというのは、実は技術的なものよりも「人間的なもの」だったり「たまたま」だったりします。
もちろん「この人はすごい実績や知識が豊富だ!」という前情報をもとに受講を希望される方もいるかと思いますが、最終的にはその先生が「好きか嫌いか」「合うか合わないか」だと思います。
やっぱり「惚れ込んでいく」ため、恋愛と同じで盲目になりやすいのです。
なので先生が適度に生徒と距離をとったり、突き放したりしないと、ちょっとした新興宗教になります。(まぁちょっとした新興宗教なのでしょうけれども)
ある意味「他流派・他者批判」をしている人は素直で純粋な人たちと言えるのかもしれません。
プロとアマは違うけれど…
先ほど少し触れた「わかってもらえなくてもいい」というのは実は少し危険な流れで、これは占い以外にも言えることなのですが、そう思った時点で成長が止まります。
ドアを締め切ってしまうため新しい風が入らないのです。もちろん全て自己満足なので「わかってくれる人がわかってくれればいい」のでしょうけれども、そこに甘んじてしまうと本当に成長がストップします。
「俺の知識の凄さをわからないヤツらがバカなんだ」ぐらいの域まで達してしまうと本当に手がつけられません。
人が寄り付かなくなるわけですから、仕事が入ってこなくなります。人と話さなくなるため悶々と自慰的に研究するしかなくなってきます。すると、(同じような)知識や情報が蓄えられ、さらに閉鎖的になっていきます。
正直プロとして活動している僕よりも豊富な知識をもっているアマチュアの方はたくさんいます。
「こんな知識でお金とっているのか!無料の私の方がちゃんと占うぞ!」とおっしゃるアマチュアの方もいらっしゃいますが、占いで食っていくには「占いの知識」よりも実はその他のスキルの方が重要です。
コミュニケーション能力だったり、営業能力だったり、自己開示力だったり。そこができるかどうかがプロとアマの違いだと思います。
もちろんアマでもいいと思います。ですがプロとアマは実は「やっていること」がそもそも違います。
そして何度も言うように、プロであろうがアマであろうが同じように「無限の穴」を目の前にしているの変わりないのです。
「わかってもらえなくていい」流れに逆らいたい
ここまで理解しておきながら、僕も「あの流派はダメ」とか「僕の良さがわかる人だけにわかればいい」とあぐらをかくわけにはいきません。
というかやっぱり「無限の穴」の存在を感じれば感じるほど、このままではいけないと強く思うのです。心臓をギューっと鷲掴みされるような気持ちになり、いてもたってもいられなくなるのです。
僕はこの「わかってもらえなくてもいい、わかるヤツだけがわかればいい」という研究者的な気持ちもよくわかります。
なんせ理系の修論発表なんてモロ「わかるヤツがわかればいい」の世界でしたから…。
同じ学科でも研究分野が違いすぎて発表に対してまともなツッコミを入れられる人の方が少ない上に、自分の研究室の学生に対してトンチンカンな質問をしてきた教授に対して
「あの先生はこの分野のこと全然わかってないから気にしなくていい」というような雰囲気すらありました。あれこそ「わかってもらえなくていい」まみれの世界です。
本などを読んでいて、眠くなって本を閉じてしまうことってありませんか?
なぜ眠くなるか?
その理由は簡単です。
内容がつまらないと感じるからです。
つまらないと感じるのは「理解できない」からです。
(もちろん理解できた上でつまらないと感じるものもありますが)
理解できればスラスラ読めますし、何度も読み返したくなります。
映画や小説で「理解」できると、また最初から読みたくなることありませんか?伏線などがわかった状態で読むとまた違った楽しみ方ができます。
僕はハリーポッターを初めて読んだとき、一晩で1作目と2作目を一気に読み終えてしまいました。
気づいたら徹夜していたのです。おもしろかったら時間も眠気も関係ないのです。
つまらないから寝てしまうのです。疲れてしまうのです。
冒頭に書いたように、やっぱり「理解できる」と楽しいです。嬉しいです。もっと欲しくなります。
なので、僕は「占い」という自分が好きな穴を掘り続ける上で、その掘る面白さや楽しさを伝える努力をしたいと考えています。
この秘密主義のキナ臭い業界に風穴をあける!とまではいかないものの、やっぱりどんな形であれ「わかってもらえる」ように開示していこうと思います。
実はこの「わかってもらうようにする」という作業は、めちゃくちゃ勉強になります。
自分でも言葉やキーワードの意味を掘り下げなければならないため、研究する上で「わかってもらう」というのは非常に役に立ちます。
そしてやはり「無限の穴」を強く感じるのもこの作業の醍醐味であります。
なぜ『教える側が偉い』のでしょうか。なぜ知らない人に対して高圧的・威圧的になるのでしょうか。
『知らない人=下等』と考えているからでしょうか。
語るのはいいのですが、そこに侮辱や『そんなのも知らないのか』という不憫を混ぜる必要はないと僕は思っています。— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年7月15日
確かに話を聞きにきてくれるだけで嬉しい。でも嬉しいからと言って調子に乗って知らない(聞いてくれる)人に攻撃的・威圧的になるのはいかがなものでしょうか。知らないものは知らない。これが大前提にあることを忘れてはならない。
— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年7月15日
というわけで
某書店の店主さんに「高い本買っていくけど、お兄さん絶対内容を明かしちゃダメだよ」と釘を刺されましたが、9月から暗黒魔界図書館も再開しようと思います。
今図書館の移転も進めており、気学講座も開設を予定しております。
謙虚に。フラットに。
にしけい