「固める」「固定する」ことを好まない・苦手とする僕としては、「固」にメリットをあまり感じません。
例えば「場所」を固定すること。
場所を固定することは「安定」も得られますが「偏り」も強くなります。
10年ほど前、名古屋である占い師さんに手相を占ってもらったことがありまして。
10年ぶりにその方のお店に寄って占って頂いたのですが、当時感じた凄さをあまり感じることが出来なかった…という経験があります。
当時と変わっていない。というよりも「偏ったまま固定されている」ようでした。
当時の僕はそれが見抜けませんでした。ある意味自分の成長を測る上での定点観測的には良い経験にはなったのですが、あのとき感じた「感動」を返して欲しい気持ちにもなりました。
決めつける・経験論で押し通そうとする・独自の理論がない(それ普通の本に書いてある)という点で柔軟性のなさを感じたと同時に、その占い師さんから強く感じられたのは「慢心」でした。
そうか。場所を固定すると、考えも心も柔軟性を失い固まってしまうのか…。
能動的に諸行無常を。
家相ではその家の性質がそこに住む人たちに染み込んでいくまでに時間がかかります。
逆に言うと同じ土地に固定され続けると、その土地や家の性質がその人間に強く固定されます。
僕の感覚ですが
家相は「染み込む」
風水は「刷り込み」
のようなイメージがあります。
あとは家相は受動的で、風水は能動的な印象です。— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年6月11日
これは「通勤」や「通学」も同じで、毎日同じ場所に向かっていると、ある程度変化はあるものの「固定」の力が働きます。
また「類は友を呼ぶ」なので、特定の環境には何かしら「似た人たち」が集まります。
ある特定の場所で内容を変えずに占いをしていると、客層も同じような人たちが集まります。
これは「場所を変えてみて」はじめて気づくことなのですが、先述した占い師さんのように10年以上同じ場所で占いをしていると気づきにくいのです。
料金を上げるとか、占術を変えるとかすれば、客層も変わるのでしょうけれども、彼は10年前と変わらず3千円で同じ内容の占いをしていました。
人間はついつい、自分の居心地がよい環境に止まろうとします。
一度居心地の良い環境が見つかったら抜け出すには、なかなか勇気が要ります。
同僚や仲間ができるとそれはそれで心強いし、帰る場所があると安心感もあります。組織や集団が作り出す「いつもの」の良さを僕も知っているつもりです。
固定された場所、固定されたメンバーが作り出す安定感は、時として必要なのかもしれません。
しかし、外から見ると、動き続けている人から見ると、文字通り「止まって見える」のです。
僕があの占い師さんから感じたのは「固定することによる弊害」でした。
変わらないことで得られる信頼もあれば
変わらないことで失う信頼もある。— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年6月20日
「常習化した人」をどうやったらそのループから脱出させられるか。地球がまわり季節が巡るように何度も同じ思考回路を続け苦しんでいるように見える人にどこまで手を差し伸べるべきか。正直同じ思考回路って苦しんでいるように見えて楽しているんだけどね。
— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2017年2月5日
「今この瞬間だけ」という気持ちで場所や人と向き合う。
そうでないと「居心地の良さ」から「惰性」や「慢心」や「身内ノリ」を生み出します。
「諸行無常だからね」と口で言うのは簡単です。言葉の意味は簡単に理解できます。
しかしこの「諸行無常」を能動的に実践していかないと、本当に人間は分かりやすく「止まる」ことになります。
全て「今だけ」
僕は集団の最小構成単位である「家族」という概念さえ、刹那的なものだと思っています。
父から「再婚するから占って欲しい」という電話がまたあった。僕が住んでいた実家に僕の知らない女性とその子供が寝泊まりしていると考えると、ときどき大きな違和感を感じたりもする。
僕も母も姉も犬もウサギもあの家で一緒に暮らしていたのは「一瞬」の出来事で「たまたま」なのだろうなぁ。— にしけい/Nishikei (@nishikei_) 2018年6月20日
離れたり、くっついたり、増えたり、減ったり。
そこに一喜一憂するエモーショナルさに「ドラマ」を感じたりして、「主役」や「ヒロイン」に浸っていたくなったりもするのですが。
この「主役」や「ヒロイン」を感じるためには、考えや思い出を「固定し続ける」必要があります。
でも、これって「固定されていない立場」から見ると、すごく不憫さを感じるのです。
例えば、自分が劇場版ポケットモンスターの通行人Aとして「なんだあのポケモンは!」というセリフのみを演じることになったとします。
2時間の映画の中で自分が出ている瞬間はこのセリフだけなのです。
この一瞬だけはスクリーンに「自分が関与した場面」が登場します。この瞬間のみは自分が主役なのです。
で、その自分が出演しているセリフの部分のみを切り取り編集したDVDを見続けている、そんな不憫さなのです。
諸行無常だと理解しておきながら、ミクロに固定された瞬間に固執する。
それが生きる原動力になったりもしますし、行動原理になったりもします。でも、それが逆に行動を妨げたりする弊害になる場合もあります。
でも、僕がもし実際「なんだあのポケモンは!」というセリフだけでも頂けたら
その場面が入ったDVDを街角で配布したり、家宝として金庫に入れたりしてサルのように喜ぶと思います。
湯山監督!ぜひ僕を通行人役で起用してください!お待ちしております!
にしけい