満たされない気持ちは「固定された理想(ピーク)」から生まれるのかも

かまって欲しい。相手にして欲しい。自分を見て欲しい。褒めて欲しい。さみしい。こういった感情はどこからやってくるのか。自分にはあまりない感情なので、こういった感情が強烈な人を見ると、疑問を感じていました。「満たされていない」と感じるのはどうしてだろう。どのように起きるのだろうか。こういった疑問をただ「寂しがり屋なだけでしょ」と排除してしまえれば終わりなのですが、こういう違和感を感じたときほど言語化できたときに得るものが多いので、観察と思索を繰り返しています。「人間ノ心トハ何ナノカ。博士ハソレヲ私ニ教エルコトナク死ンデシマッタ…」と花畑で佇む錆びたロボットが考えそうなことを考えていますが、この「満たされなさ」の正体って何なのでしょうね。

「満たされない」と感じる人たちを観察していると、決して彼・彼女たちが「もっていない」わけではないことがわかってきます。家族・家・お金・学力…etc. つまり実際の「もっている」「もっていない」とは関係なく「満たされない」という気持ちが生まれているようなのです。「満たされない」と感じるということは、彼らの中に「満たされたと感じる基準」があるわけです。「足りない」と感じるわけですから「足りている」状態のイメージがあるはずなのです。例えば財布に3000円入っていたとして、それを「3000円しか入っていない」と感じるのか「3000円も入っている」と感じるのか。このときのどちらも「想像」や「理想」のようなものが基準となって判断しているわけです。条件分岐です。「急に友達から誘われても1000円ぐらいで済むもんな」という条件が基準となっているなら3000円は「足りる」と感じるでしょうし、「この前読んだ雑誌で財布の中身は常に’年齢×100円’がいいって書いてあったから4000円はもっていないと」という理想のようなものをもっていたとしたら「足りない」と感じるわけです。

かまって欲しい。相手にして欲しい。自分を見て欲しい。褒めて欲しい。さみしいといった感情が強い人は、何かしら「固定化された理想」があるように見えます。そして、そこに達していない自分は「不足している」と判断するわけですが、その「理想」はどこからやってくるのでしょうか。にしけい調べですが、かまって欲しいという感情が強い人の多くが第一子率が高いように見えます。幼少期に親から干渉された度合いが強い場合、それが「ピーク(理想)」となっているのかもしれません。つまり「かまってもらえる」「自分は何かしらコメントがもらえる」という状態が「理想」であり「ピーク」になっていて、誰かに何か言ってもらったり、かまってもらえていないと「不足」を感じるのかもしれません。幼少期ではなくても、例えば中学でめちゃくちゃモテたとか、十代で衆目を集めるような経験をしたとか「ピーク」だと思っている状態があって、それと比較している可能性があります。同じような経験をしていてもそれを「ピーク」と捉えるかどうかは人それぞれです。例えば、中学時代に10人の男子から告白されたという経験をした女性がいたとして、それを「あの頃はモテ期(ピーク)だった」と感じるのか「特に何もなかった」と感じるのかは違うわけです。何を「ピーク(理想)」と定めるかは人それぞれで、他者が作り出した理想を自分の中で「最善(ピーク)」であると固定化するケースもあります。「30歳になったら結婚して、子どもがいて、マイホームを建てる」ことが「理想」の人もいます。国・地域・人・家族・職場…いろいろ要素がその人物の「理想」形成に影響を与えます。しかし、最終的に「理想」を作り出すのは本人です。

「ピーク」に向かっているのか、通り過ぎた「ピーク」を懐かしんでいるのか。諸行無常の中で「通り過ぎたピーク」を懐かしんだり、それを基準に「今」を判断するのは不自然な気もするのですが、「かまってほしい」という人の多くが「通り過ぎたピーク」を追いかけているようにも見えます。涙そうそうの歌い出しに「古いアルバムめくり、ありがとうってつぶやいた」とありますが、「あの頃はよかった」「あの頃は楽しかった」とかの「あの頃」って「ピーク」のことなんですが、案外自分がピークだと思っている状態を明確に認識している人も少なくて。「理想」は「幻想」で、本当はどこまでいっても到達できないんですけど、これを固定化させてしまうと「不足感」が強くなるのかもしれません。

「コンプレックス」というのもおそらく何かしら「固定化された理想の状態」があって、それがあるゆえに生じている可能性があります。たまに「私は親に可愛がってもらえなかったから、自己肯定感が低い」というようなことを言う人がいますが、僕は逆に本当は「可愛がってもらっていた」という認識が強いから、それが「ピーク(理想)」になって、喪失感を感じるのではないかと考えているのですが、どうでしょうかね。たまに妻と次女と3人で出かけたりすると長女が「ずるい、私も3人でお出かけしたい」と不平不満をこぼすのですが、「いやいや、あなたは誰よりも(親子)3人でお出かけした時間が長いんだよ」と説明すると頬を膨らましてムスッとします。でも実際、下の子たち2人は「父・母・子」という3人で過ごす時間がほとんどなかったのです。つまり両親に挟まれて、両親の愛情を独り占めしているような感覚を味わう経験をしているのは長女だけなのです。だから「可愛がってもらえなかった」「弟たちのために我慢してきた」というのは「独り占めした」という「ピーク」があって初めて生まれる感情なのです。他の家族や家庭を見て、そこから「理想(ピーク)」を創り出す場合もあるでしょう。「理想」をもつことは悪いことではないのですが、それにとらわれすぎると「現実」が空しい・寂しい・満ちていない状態だと感じやすくなります。理想が「固定化」されているので、言い換えれば頑固だし一途だと言えるわけですが。

「夢を見ず、現実を見ろ」と言っているわけではないです。理想とする世界があって、目標があって、それで楽しい気持ちになれるなら、少しでも誰かに優しくできるなら、明日も頑張ろうと思えるなら、それはそれでいいかもしれません。しかし、それにとらわれて「辛い気持ち」「自分はダメだな」「寂しいな」と思うのであれば、一度「理想」を見直してみるのもいいかもしれません。「自由に生きたい」と願いながらも、自分から不自由になりたい人が多いんですよね。となると、何かに縛られて不自由のほうが余計なことを考えなくて良いので実は幸せだったりするのかもしれませんね。

にしけい

にしけい (西田圭一郎)

1987年富山生。工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。三児の父。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。学生気分が抜けません。詳細はこちらから

にしけい (西田圭一郎)

1987年富山生。工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。三児の父。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。学生気分が抜けません。詳細はこちらから

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