【高野山 道中記2】『山』と在り続ける・残り続けるための柔軟性

高野山駅に到着したら、すぐにバスにのって奥之院に行きました。500円のバス1日乗り放題パスを購入したかったのですが、高野山駅から奥之院方面のバスがすぐに出ると急かされて交通系ICで乗りました。バスは交通系IC以外にクレジットカード決済(カードを当てると乗れるやつ)が導入されていて高野山の柔軟性に驚かされました。海外旅行客にとっては嬉しいシステムです。

この日は死ぬほど雨が降っていて、わざわざこんな日に行かなくてもいいのに…という感じでしたが、雨が降る中見るお墓もまた心に染みる趣がありました。

 

 

奥之院周辺にあるお墓を眺めていると、「意地でもここに根付いてやるぞ」という「根気」のようなものを感じました。僕は電車とケーブルカーで登ってきましたが、そのようなものがない時代にこの山に登り、石を運びお墓を建てた人たちの気合いと根性は並々ならぬものがあります。日本には太古の時代から「山岳信仰」がありますし、現代でも山登りが好きな人たちがいますが、素直に凄いな…と思います。

下記の記事でも書きましたが、お墓は「縛り」を生み出します。範囲の限定と固定です。

「居場所(ホーム)」と「帰還」の効用
https://nishikei.jp/koikumo/51218/

山は姿形が長い期間変化しません。「変化しないもの」「在り続けるもの」ということで、永遠性や神性を感じた人たちが世界中にいたのかもしれません。去年、オーストラリアでエアーズロック(ウルル)を見に行きましたが、アボリジニのウルルに対する考え方は、日本の山岳信仰に通じるものがあると感じました。

山という「在り続けるもの」「変化しないもの」に、お墓を建てるということは、揺るがないものに揺るがないものを建てるわけですから、「残って欲しい」というすごく強い縛りを生み出します。わざわざアクセスが悪い場所に建てることで、境界性を強める作用もあります。

でも、境界性が強すぎると、管理されにくくなり、お墓が残りにくくなります。よく山奥にポツンと立ってるお墓がありますし、足を踏み入れることが困難な山奥にお墓を建てる人もいます。残すためにはある程度「人の手」が必要になるのですが、あまりにも境界性が強くなりすぎると、それはそれで孤立して残らなくなります。

しかし、高野山は修行場・学校・観光地などを作ることで、アクセスしにくい場所にありながらも、「人の手」が常に途絶えないような工夫がなされているわけです。何かこう高野町全体で1つのお墓のように「在り続けようとする機能」があるように感じます。そして、在り続けるためには「変化」も必要です。

在り続けるためには柔軟性が必要になります。もともと日本に根付いていた山岳信仰と仏教を融合させたところから始まり、バスの外国人観光客向けのクレジット決済に至るまで、真言密教には「使えるものは使う」「うまく活用する」という精神が一貫してあるような気がします。

お墓たちから感じた「意地でもここに根付いてやるぞ」という貪欲さのようなものは、その象徴だったのかもしれません。ただ、ちょっと荒々しいお墓が多くて、ハングリー精神だけではなくエッジが効いた感じがあって、突き刺してくるようなピリついた空気がありました。雨の日に行けて正解だったかも。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。著書は50冊以上。三児の父。詳しくはこちらから。

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