神奈川県三浦市・大浦山海蝕洞穴から見る日本の占い

僕は頭が悪いので情報の羅列よりも体験→情報のほうが飲み込みが早い傾向があるので、まず体験して興味関心をもってから一気に調べたり勉強したりする癖があります。それっぽく言うとフィールドワーク派です。

頭の中がとっ散らかっていますが、情報と体験を紐づける整理のためにもメモ代わりに記事に書いていきます。読みにくい&情報の正確さは目を瞑ってください。他に役に立ちそうな文献や情報などがあれば追記していきます。

 

大浦山海蝕洞穴

 

〒238-0104 神奈川県三浦市南下浦町553

 

 

来ました

 

横須賀中央駅でおりてレンタカーで走ること30分ほど。狭い道がくねくね。行くとしたら軽自動車かバイクがおすすめです。体力に自信がある人は自転車でもいいかもしれません。

 

足元には先住民フナムシたちがわんさかといます。

 

わかりにくいかもしれませんが、画像左側に洞窟があります。

 

洞窟の内部に入るためには雑木林のような中を突っ切る必要があります。そもそもここまで入るのに鎖がしてあり本当は入ってはいけない場所ぽいです。洞窟までの道のりは草木に覆われており「なんか入って欲しくなさそう」な感じでした。

 

雑レポーターにしけい

 

 

下手すぎる現場レポートはさておき…

 

 

ここは何なの?

 

詳しく知りたい!そんなときは神奈川県立歴史博物館へ!

 

 

大浦山洞窟は海面より6~7mの高さに開口する海蝕洞窟であり、この模型は弥生時代後期ごろの人々がここで生活していた様子を復元している。(中略)調査の結果、弥生時代中期〜古墳時代後期にかけて居住地」と「墓地」という二つの性格をもった利用がなされていたということが判明し、漁撈具のほかに貝製品・魚骨などが出土していることから、主に漁撈活動を営む小規模な集団がこの洞穴を短期的に繰り返し利用していたと考えられる。(神奈川県立歴史博物館より)

彼らが貝製品の交易にも携わっていたことがわかります。その他、鹿の骨を使った弥生時代の占いの道具(卜骨)や、亀の甲羅を使った古墳時代の占いの道具(卜甲)なども見られます。(同博物館)

 

この洞穴は海蝕洞穴といい、波の浸食作用によってながい間につくられ、それが地震などによって陸地が隆起して現在の位置にあるものです。(中略)昭和二十四年、三十七・八年の発掘調査の結果、弥生時代から平安時代までの遺物が発見されました。出土した遺物は弥生土器、土師器(はじき)・須恵器(すえき)・骨角製品として鹿の角で作られたヤス、離頭銛、釣針、髪飾、弦楽器部品などがあり、ほかに卜骨(骨を焼いて占をした)、貝包丁、貝輪、貝刃等があります。(中略)これらの遺物から、遠い先祖たちがこの洞穴を生活の場として利用し、あるいは仲間のなきがらを葬るなどしてきた場所であることがわかります。(三浦市・立看板より)

 

骨を使った占い・亀を使った占い

 

日本に住んでいた人々はどのように占い、何を占ったのか。日本で占いを生業にする以上、気になってしょうがないポイントです。占いは文化です。その土地土地に根付いたやり方・考え方・哲学があります。占いを知ることは文化を知ることだと考えています。そういったエッセンスを知ることで、実占の現場で役に立つアイディアが生まれたりします。

 

骨卜(こつぼく)

古くはヨーロッパ・アフリカ・北アメリカ・中国など世界各地に骨卜の記録があり、モンゴルでは現在も羊の骨を熱しそのヒビの入り方で見る占いが行われている。日本では紀元前の弥生時代に行われていたことが全国の遺跡から出土した卜骨により確認されており、中国の歴史資料「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」には、3世紀の日本で卜骨を行っていたとの記述がある。7世紀以降の律令時代には国の祭事として行われた。(コトバンクより引用)

 

亀卜(きぼく)

カメの甲羅を使う卜占(占い)の一種。カメの甲羅に熱を加えて、生じたヒビの形状を見て占う。甲卜(こうぼく)ともいう。(wikipediaより引用)

 

この洞窟では骨卜と亀卜両方されていた?

 

4号墳墓宮土上面から出土した灼弔は,鬼高期に属する可能性が多い。弥生時代後期の灼骨とは,形状ならびに系統が全く異なる卜占具であり,その存在は,弥生時代後期(西暦 2~3 世紀〉から少なくとも古墳時代後期(鬼高期のものとした場合,西暦6世紀〉に至る間に,新しいト占の形式が伝播したことを示すと考えられる。 しかし,灼骨の系統をひくと思われを鹿ト〈骨卜〉は後世にも各地で行なわれており,灼平 による卜占(亀卜〕の出現が,ただちに灼骨による卜占の消滅を意味するとは断定できない。 また,本例と最も近似した灼甲としては,対馬に現存する後世の数例があるが,一方,横穴墳墓から出土した形式の異なる例も知られる。したがって,間口洞窟遺跡出土の灼甲が卜占の変遅過程の中に占める位置については更に検討の必要がある。

(中略)

三浦市南下浦町松輪・大浦山洞窟遺跡でも最下層から宮ノ台式土器が出i:. l ,三浦市南下浦 (在9) 町金田・雨崎洞窟遺跡では宮ノ台式土器のほか,須和田式土器が出土したと言われかこれらの遺跡の実例からみて,三浦半島における海蝕洞窟の利用は,一般に後期以後と考えられているが,既に中期から,かなり行なわれていたとみるべきであろう。

神奈川県立博物館発掘調査報告書 7号(1975/3/25)

 

 

 

骨卜よりも亀卜の方が格式高い?

 

七世紀に成立する律令国家は、官僚機構の中に神祇官を設けることによって、神の管理をめざした。「祟り」や怪異を管理することは王権の危機管理によって欠かすことのできない条件であった。そこで王権が選んだ回路が卜部の亀卜であったということになる。王権の危機管理を目的とした卜占であるため、当時広範囲で行われていた卜占法、つまり骨卜では用をなさなかったのだろう。王権が独占できる技術が求められたはずである。そこで古代王権が選択した卜占法がウミガメの亀卜であった。(臨川書店 東アジア恠異学会編 亀卜 歴史の地層に秘められたうらないの技をほりおこす/怪異と亀卜-媒介者としての卜部-より引用)

 

神祇官の階級のなかに伯(かみ)と大祐(だいじょう)と小祐(しょうじょう)と大史(だいさかん)と小史(しょうさかん)というのがあって、このもとに卜部とかその他の人たちが二十人とか三十人とかいると書いてございます。「従五位下丹波介卜部宿禰平磨卒」ということで、平磨は伊豆の人で、幼くして亀卜を習って神祇官の卜部となるとあります。(東方出版/千田稔・宇野隆夫 編/亀の古代学より引用)

 

このように全国各地にある洞窟で占いをしながら暮らしていた人たちの中から、素質があったり、上手い子をスカウトして神祇官に就職(?)させていたのかもしれません。逆に全国各地の洞窟が占い師養成学校として機能していた可能性もあります。

 

 

実際に洞穴を見に行って感じたのは「こんなところで暮らすって大変じゃない?」ということです。当時は稲作も始まっていましたし、人々は河川の近くに村や国を作っていました。「辺鄙なところ」だったのではないかと思います。そんなところにわざわざ住んでいたのはなぜだったのでしょうか?海が好きだった?刺身好き?貿易が得意?

いずれにせよちょっとマイノリティ感が募る場所です。

 

(前略) 古墳時代後期に亀卜の手法が伝来し、7 世紀までの間に作法が確立し、国家にまで採用されるに至る。(中略) 9 世紀以降は形式化が進む。考古資料の面では、不整長方形の鑽を刻むもの、亀甲の代わりに薄板を利用したものが出現するなど粗雑化が認められる。文献史料からみても、次第に鑽(町)を刻む手法が墨書に変わるなど簡略化されていく。御体御卜での卜占内容をみても、中世の『宮主秘事口伝』の段階では相当に形式化されていることが、史料の検討から確認されている(安江 1979)。即ち、国家での卜占をみても順次規模が縮小していくことが了承されよう。(中略)

地域的には、東日本で骨中心、西日本で甲中心という大枠での地域差は見出せる。ただ、記録に残る卜占と出土卜骨・ト甲との間には、中世段階での証左がほとんど無いのが現状であり、何処まで関連づけられるかは課題が残る。また、全面焼灼法の存在も、考古資料の上では本州では認められず、その起源も不明である。このほか、卜部による卜占の実態、他の神祇信仰や
陰陽道との習合の状況、など考古学・文献史学両面から追究していくべき課題は多い。

國分篤志 /史料・神事にみる卜占の手法―考古資料との比較を中心に―

卜部(うらべ)が「浦部」になった説があって、全国で「浦」が付く地名や名前はこの「卜(うらない)」と関係があったとか。「浦」は「裏(うら)」とか「暗いところ」とか「水」に由来しているという説もあります。

今回、足を運んだ場所も神奈川県三浦市で、大浦山海蝕洞穴です。

亀と浦ですぐに思い出すのは童話「浦島太郎」ですが、浦島太郎は童話には珍しくプチバッドエンドです。浦島太郎のような話を創出することで、何かこう「海に近づいたら危ないぞ」ということで「海辺でやっている大事なこと=占い」を見せたくなかったのかもしれません。

 

亀卜が今も日本で残る理由は何なのか?

 

『易』の卦名は、先秦・前漢ではまだ安定しておらず、後漢までにはおおよそ今の形となり、「坤」の卦名は隋唐まではもっぱら「巛」とされていたが、唐以降、「坤」の呼称で定着したとするのが大筋の流れである。

半知録/卦の由来 より引用

八卦の由来が明らかになっていないにせよ、律令国家が成立する七世紀ごろの中国は唐であり現在の周易の形が既に成立していたと考えられます。遣隋使や遣唐使を派遣することは「当時の最新の技術を学ぶこと」だったはずなのに、なぜか日本では亀を使った占い[亀卜]が「国家の占い」として行われています。

易ではなく「亀を使うこと」で「特定の地域や特定の場所でしか占えない」という縛りをつけることができたのかもしれません。易であれば、筮竹や算木といった道具があれば占うことができます。道具を使わなくても立卦できてしまいます。しかし「亀」は特定のエリアでしか捕獲できませんし、骨卜に使う鹿や易占に使う竹などを制限するよりも制限しやすいです。

しかし、実際のところはどうなのでしょうか。なぜ日本国家は当時、亀卜を採用したのか…?

 

国家と占いは蜜月の関係

 

 

こちらは佐賀県にあります吉野ヶ里遺跡です。

弥生時代の「クニ」の再現模型があります。これは主祭殿2階で王をはじめとした男たちが「稲刈りの時期」を話し合っているところらしいです。

 

その上の階にある3階では巫女さんが「稲刈りをいつにするか」ということを占っています。占うと言うよりも御神託をもらう…に近かったようです。弥生時代にも骨卜の形跡があったようなので、この模型のような感じで占っていたかは不明です。

 

最高司祭者(巫女)が、祖霊からお告げを授かるために、蔓(かずら)を頭や身体にまき、手に小笹を持って、琴の音に合わせて神がかりしようとしています。巫女の発するお告げを、聞き分け、伝える人が、控えています。鏡や玉・剣は、巫女が祖霊と交信するための祭具です。(吉野ヶ里遺跡/最高司祭者の神がかりの様子 より)

 

神主さんに電話

 

別件で質問したいことがあったので、知り合いの神主さんにすぐさま電話します。都内のとある神社の神主さんです。(宣伝も兼ねて今後神社名を出していいか聞いてみます)

 

にしけい「”何かを神様に尋ねる”というのは現代の巫女さんはされるのでしょうか?」

神主さん「しません。多くの現代の神職者がもとにしているのは平安以降に作られた神学です」

にしけい「現代での神社は(基本的に)占いはしないのですね。では何をしているのですか?」

神主さん「御祈祷は祈りとか願いなので、問うことはしません」

にしけい「なるほど、ありがとうございます」(以下雑談1時間ほど)

 

確認できたこと:神社では基本的に占いはしない

 

ポイントは「基本的に」なので、今でも骨卜や亀卜、豆占いなどなどやっているところはありますし、天皇でも代替わりのときに皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」で亀を使って占いをやったりもしています。

なので、今でも「国家」と「占い」は密接な関係があります。もちろん明るみになっていないところもいっぱいあるでしょうし、いっぱいあります。

 

ということで、ざっとこんな感じでしたが、体験→情報をまとめてみました。また追記事項があれば書いていきます。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎

1987年富山市生まれ。工学修士。 商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。黒も好きです。どの国に行ってもスチューデント扱いされます。詳しくはこちらから。

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