操り人形の「糸」が見えるとき

嫌な夢を見て目が覚めたんですね。次女がマンションのベランダの柵のところに立って歩いてて、「危ない!」と思っていたらそのまま落ちてしまったんですね。マンションは9階。落ちたら死ぬはず。だけど、下まで降りてみると次女はなぜか生きていて普通に会話ができる。急いで車に乗せて病院へ向かうんですが、「パパがかなしむからわたしはしなないよ」って言ってるんですね。胸が締め付けられて、ワーッとなったところで目が覚めました。

まず、現実の次女は人一倍慎重です。ベランダの柵のところを立って歩くようなことをしません。長男ならわかるんですけど、次女は絶対そんなことをするタイプではないんです。その時点で本当はリアリティがないんですね。それでいて落ちてしまったあとも軽傷っぽくて普通に会話ができる。これもリアリティがありません。夢に対して「リアリティがない」というツッコミを入れるのはナンセンスな気がするのですが、これってけっこう重要なことなのではないかと思いキーボードを打ち込んでいます。

漫画を読んでいてキャラクターの言動や行動に違和感を感じて読むのをやめてしまう作品がちょくちょくあります。その状況でそういう言葉が出てくる?なんでこういう行動をとったの?それはやらないんじゃない?といった「?」が出てくると、一気にその世界への没入感が消えてしまうんですね。作者の意図や物語のためにその行動をさせられているんだなということに気づくと、なんか萎えてしまうんですね。致命傷に至ったから死ぬのではなく、読者を泣かせたいから死ぬという感じなんですね。操り人形の「糸」が見えてしまうような、演じていることが分かってしまうというか。

「フィクションだから当たり前だろ!」「作者の思い通りにキャラクターを動かすのは当然だろ!」という思われるかもしれませんし、確かにそうなんです。でも、やっぱり中には作者が操っている「糸」が見えなくて、そのキャラクターだったら当然そうするよなという不自然さがない作品もあります。「場」と「キャラクター」が合わさった時に、そのキャラクターの行動や言動に違和感がないものです。「play(プレイ)」って「演じる・遊ぶ・試合する」といった意味がありますが、意識的にやることだと思うんですね。無意識に演じることもあるでしょうけれども、日常の中では意識的にplayしていることがほとんどだと思うんです。

夢で見た次女も、ベランダから落下して父親の胸を締め付けさせるために動かされていた感じがしたんですね。その夢を作り出した作者(おそらく自分)の意図が見えて、次女を操る糸のようなものが見えてしまったんですね。夢やフィクションにリアリティを求めることはナンセンスだとは思うのですが、この「不自然さ」に気づけるって結構大事なんじゃないかなと思うんですね。

ナレーターのスクールに通っていた頃、テーマに沿ってフリートークをするという授業があったのですが、原稿を作ってくるように言われるんですね。それで、原稿を作ると不自然になるんですね。ちょっと色がついちゃうというか、着飾っていることが自分でもわかってしまうし、プロの目から見ると「キャラを演じている・作っている」というのは瞬時に分かってしまうわけです。

自分自身もこうしてブログに文章を書き続けていますが、後々読み直して「クソだな」という記事は意図が見え透ける記事です。お知らせや告知に関する文章は、フィクションですと割り切っているようなもので「こう演じています」という前提がわかるんですけど、フィクションではないような顔をしながら、「意図」みたいなものが見え透ける記事は「消したいな」と思ってしまう記事なんですね。なんか凸凹しているというか、ボコボコなんですね。書いていてお蔵入りになっている、途中で書くのをやめて消した記事もたくさんあって、そういうときって大体「意図」があるときなんですね。

それで、こういう「不自然な行動」や「不自然な言動」というのは、何か別の意図があって、行動や言動としての純度が低いんですね。「なんでこの人はこんなことを言うんだろう?」「なんでこの人はこんな行動を取るのだろう?」と疑問とツッコミが浮かんだときに、その背景を質問したり、考えたりするわけです。一言で言うと、「なんで誤魔化す必要があるんだろう?」ということなんですね。

それで、誤魔化すときって、やっぱりうまくいっていないとき、もしくは「うまくいっていない」と本人が判断しているときなんですね。キャラクター自身が自然に動いているのではなく、物語の都合のために動かされているときと同じなんですね。何かそのほうが「誰かにとって都合がいい」からそうしている場合が多いんですね。

その「誰か」は会社の上司だったり、家族だったりするんですけど、やっぱり一番は「自分」だと思うんですね。それで、それが良くないことだとか、悪いことだと決めつけることが目的なわけじゃなくて、誤魔化すに至った背景が大事なんですね。そこに本当にどうにかしなければいけないテーマが隠れていたりします。それで誤魔化し続けると、やっぱりゆがみが出てきてその状況が破綻する場合が多いです。

どこまでいっても個人の納得の話ですし、意識的にやっているのか無意識的にやっているのかの真偽はどこまでいっても確認しようがありませんが、操り人形の糸(動かす者の意図)に気づいたときにどうするか…漫画を閉じるのか、目を覚ますのか。そこが出発点な気がします。睡眠の質、大事。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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