今思うと、僕が生まれ育った家庭は父親と子供の仲が悪かったと思います。
父の仕事柄すれ違いも多かったし、母の愚痴で父のイメージダウン効果もあったと思います。
実際母が愚痴りたくなるぐらい父はいろいろやらかしていますし、僕の中ではとにかく「父親=子供から嫌われるもの」みたいな固定観念がありました。
で、自分が父親になってみると全然そんなことなくて、ありがたいことに子供たちは「パパだっこ」「パパ遊ぼう」と擦り寄ってくるんですね。最初はすごく戸惑いました。あれ?父親ってこんなに子供とキャッキャと遊んでいいものなの?一緒に寝ていいの?抱っこしていいの?
特に姉と父の仲が最悪だったイメージが強かったので、娘たちとこんなに仲が良くていいのか、手とかつないでもらえるんだ・・・という感覚だったんですね。
時代や背景が違うので、自分の父と比較するのも何か違うんですけど、「父親」「子供」という立場に対して固定観念をもっていたんだなということを、自分が父親になって初めて気づいたんですね。
たぶん自分がそういう立場にならなかったら一生「父親=子供とテキトーに遊んで子供に嫌われるもの」みたいな固定観念をもっていたと思うんです。
家に帰ると、僕は本や漫画を読んだり、朝から寝て昼起きて幼稚園から帰ってきた息子とパジャマのままゲームをしたりしているので、先日息子から「パパってニートなの?」と聞かれましたが、「まぁそんなようなものかもしれないね」と答えておきました。まぁそれはそれでいいのかなと思いました。
ちょっと他の子たちと父親についての情報交換をしたらすぐに何か気づくでしょうし、彼にとって「こんな大人もいるんだ」「こんな父親もいるんだ」という柔軟性につながるならいいかなと思っています。
疑問の種の育て方
子供のころから人間について疑問に思うことが多くて、なんでそんなことするんだろう、なんでそんなこと言うんだろう…という疑問が尽きなかったんですね。
この場合の「なんで」は「理解できない!」という否定や拒絶ではなく、「なんでトンボはこんな薄い羽根で飛べるんだろう」という類の「なんで」です。矛盾点というか、よくわからないことが多かった。そんな家庭だった気がします。
なので、30歳ぐらいからこの人間についての「なんで?」の「答え」というか「伏線回収」みたいなことをやっている気がします。ああ〜だから、この人はこういう行動をとったのか…なるほどふむふむ、という感じなんですね。
でも、それと同時にまた違った人生の伏線をばら撒いているような気がして、日々疑問の種まきと疑問の種から育った花を収穫するような感覚です。
疑問の花を収穫するには、冒頭に書いたような「それまでの固定観念の破壊」が必要なんですね。
固定観念の破壊は内側から湧いてきたり、うんうん思考したりして発生するものではなくて、(自分にとって)事件的なものが外部からポンともたらされたり、何も考えていないときに閃いたりするんですよね。
逆に無理に答えを出そうとすると、テキトーなそれっぽいこじつけをして終わりになってしまいます。だから、分からないものは分からないまま曖昧でいいんです。
世の中は曖昧なままでまわっている部分がほとんどだと思うんですよね。もちろん線引きしなきゃいけないときもあるんですけど、曖昧さという「お水」がないと「疑問の花」は育たないんですね。
だから、疑問の種が出てきたときにすぐに刈り取ろうとするのではなくて「もっとよくわからないものにしてみる」「放置してみる」といった形で方向性を無くして、疑問の花を育ててみてもいいと思うんですよ。うちのお父さんはニートなの?本を送る?またどこか行くの?今日はゲームばっかりしてるけどいいの?
よくわからない。すぐにわからない。それでいいんだと思います。
闇に覆われているから星や月が輝いて見えるのと同じで、曖昧で見えないものがたくさんあるほうが「本当に大事なもの」が何なのかわかる気がします。見えない方が見えてくるのだと思います。
今後僕のブログは薄目を開けて読んでください。きっと大事なものが見えてくるはずです。
にしけい