だいたい月に30-40冊ぐらい本を読みますが、ここ最近で印象深かった1冊が「上達論」です。
Amazonのおすすめで出てきたので読んでみたのですが、スラスラと読み進めることができた上に収穫多き一冊でした。
著者の方条さん・甲野さんは武術を軸に活動されているのですが、掘り下げていくと占いとも通じる部分が多々ありました。普遍的な内容なので、どの分野でも通じるものがあると思いますが、特に「育てる」「教える」ということをしている人には刺さるかもしれません。
「手相占いの使い方」という本を先月出版したのですが、今思うとこの本は手相占いの「虚(きょ)」をとことん引き剥がして、ゆで卵のようにツルツルにしようという目論見があったのかもしれません。上達論も全体を通して「虚への徹底抗戦」という姿勢が伺えた気がしますし、多くの人たちが薄々「それって嘘だよな」と思っていたことを改めて言語化してくれた気がします。
また、講座や教室を開講する中で、自分の考えや行動に自我に固着した点がいくらかあったなと反省する点も見えてきました。まだまだ自分可愛さのようなものを捨て切れていなかったなと考えを改めましたし、固着を捨てる原動力を本書からもらえた気がします。普段から実践できていたところも、ハッと気付かされたところも含めて「確認」ができた1冊だと思います。
僕は気になった著者の方が健在で会うことができれば、なるべく実際に会いに行くようにしています。昨今は動画などでその姿を拝見することもできるのですが、やはりお会いすると全然違います。「動画」というのも「場」です。「場が作り出した虚」というものはどこまでいっても引き剥がすことはできないのですが、少しでもそういったノイズが少ないのは「実際に会いにいくこと」だと考えています。
ということで、ありがたいことにちょうど同書のお二人が座談会・稽古を行われるということで参加してきました。これまで土日は講座で詰まっていたのですが、平日の夜に移行したので、土日のイベントに参加できるのは思わぬ副産物でした。
体験
まず、参加してみて感じたことは「体験」の揺るがなさです。
〖験〗
(驗) ケン・ゲン しるし・ためす
1.結果が形をとってあらわれること。証拠になる事実。しるし。あかし。ききめ。
2.証拠を求めて確かめる。ためす。しらべる。ためし。
これを「体」で行うことが「体験」です。まず武術は「体で結果が形となって顕れる」ので、嘘がつけないなと思いました。結果がシンプルに表れるし、誤魔化しが効きません。何かを変えたら結果が変わる。非常に直接的で科学的な姿勢があると感じました。
この会の1週間前に初めてサーフィンに挑戦したのですが、体を使うものは誤魔化しが効きません。体の重心がボードの中心とピタッと合っていなかったら、バランスを崩して海に落ちる。きっちり合っていれば、何度やってもピタッと乗れる。非常にシンプルです。
混沌の力
稽古の中で「崩す」という言葉がよく出てきました。武術や武道の分野では頻出単語なのかもしれませんが、初心者の僕としては「崩す」というものがよくわかりませんでした。
しかし、これも体験してみてわかりました。「混沌の力」です。
人間は「分からないもの(混沌)」に飲み込まれないようにするために、分化を求めます。「混沌」は通常「おそれ」の対象となります。観察していると「崩す」というのはどうもこの「混沌」を相手に与える手法のひとつなのかなと思いました。(すみません、全く素人なので違っていたら申し訳ないです)
よくわからないものと対峙したとき人はそれに飲み込まれ(いわゆる相手に飲まれる)、平常心や平静をもった動きができなくなります。
混沌の力を借りると、相手の動きが見えていても、頭で来ると分かっていても、全く反応できなくなるのです。「分からない力」というのは本当に強烈で、それゆえ武術家・武道家の方々が「手の内を明かしたくない」という考えをもつのは自然なことなのでしょうね。高い不確定性をもった事象を処理するには、より高い不確定性をもった事象を連合する訓練が必要なのかもしれません。つまり、イレギュラーに打ち勝つにはイレギュラーとどれだけ対峙できたか…しかないのかもしれません。
占いを当てることの意義
当たり前のことすぎて失礼すぎるかもしれませんが、達人の技は理解を超えていました。反応できない、抗えないんですね。やらせとか抜きで畳に打ち伏され、思わず笑顔になってしまいました。
サーフィンで波に飲み込まれたときもそうでしたが、なぜか混沌の力に打ち負かされると喜びを感じてしまうという癖をもっているということが発覚しました。
新しい混沌に出会えたことが嬉しいというか、自分の無力さを知れて何故か嬉しくなるんですね。30%ぐらい悔しさもありますが、また「また受けたい」という気持ちになるんですね。
先述したように「よくわからない混沌の力に人間は飲み込まれる」という点でいうと、凄すぎる人たちの術は「なぜそうなるのか」よくわかりません。
これは占いにも通じることで、過去の凄すぎる占い師さんたちは理論や術理を超えたところがあります。要するに「理解できない」んですね。これまで何故僕は「占いを当てること」に意味があるのかと考えていたかというと、おそらくこの「なぜ当たるのかわからない」という状況が混沌を提供することにつながるからなのだと思います。
相手を支配したいという気持ちや崩したいという意図はないのですが、「なぜ分かるのか分からない」という状況を作りだすことで当事者は飲み込まれるような感覚になると思います。「飲み込む」というと一方的な雰囲気があってキツい言葉になってしまうのですが、僕はこの「一体感」が大事なのだと思います。
個と個という分化した存在が、混沌によって一体化する。これは技を受けていても感じたことです。相手が強くなったなと感じたときは、僕も一体化させられている感覚が強くあったのです。飲み込まれ動かされるという感覚です。
ここ数年、講座や教室で「なぜ分かったのですか?」「なぜそういう判断なのですか?」という質問に対して「ちょっとわからないです」「理由はわかりませんがそうなります」という場面が増えてきて「これでは授業にならない」「説明できないのは申し訳ない」と思っていたのですが、これは占い師としては良い兆候だったのかもしれません。
皆さんも凄すぎるものを見たり、聞いたり、体験したときって「よく分からない」という風になると思うんですけど、それを誤魔化し抜きで出来たとき、初めて人を動かすことができると思うんですよね。
「誤魔化し」「後付け」「脚色」といった「虚」があると、どうしても純度が下がってしまうんですね。もちろんそれで動く人もいるのでしょうけれども、僕自身もっと突き詰めて虚を捨てて混沌を極める必要があるなと思いました。
懇親会
稽古の後は懇親会も同時に催されるということでしたので、参加させて頂きました。
幸運なことに、甲野さんとお近くの席だったのでずっと甲野さんの貴重なお話を聞かせて頂けました。安直な感想になって恐縮なのですが、とにかくおもしろい話がたくさん聞けました。あと話を聞いていて感じたのは、本当に柔軟で素直なお方なのだなと思いました。
飄々としているというか、マイペースというか、風のように軽やかな雰囲気で、とても73歳の方とは思えませんでした。なんか肩に力を入れず、僕ももっとフワッとしていていいんだなと思いました。
年配の方とお会いすると8割ぐらいの確率で説教・自慢・苦労話・過去の栄光話になるのですが、そういうのが全くなくて、学校の教室の後ろのほうで同級生と「こういうおもしろい話があるんだぜ」とおしゃべりしているような不思議な感覚でした。すごく失礼かもしれませんが、甲野さんも中学生ぐらいから変わっていないのかもしれません。それぐらい内面的な若々しさと素直さを感じました。もっといろいろ遊ぼうと思いました。
「上達論」の著者である方条さんともお話してみたかったのですが、そういう機会が来たら自然とそうなると思うので、流れに身を任せてみようと思います。
鏡になる人
誰でも少しはそういう面があると思うのですが、フラットな人、純度が高い人にお会いすると「ピカピカに磨かれた鏡」に対峙しているような気分になります。
虚があればあるほど鏡は曇っていくのですが、曇りがない人に出会うと「よく映る鏡」になるんですね。
甲野さんにいろんな方が挨拶に来たり、話しかけてこられたりしている様子を観察していて感じたことは「すごくよく映る鏡だな」ということです。
甲野さんと対面して「どう感じるか」「甲野さんのどの要素をピックアップするか」というものが、その人の人柄をよく表していました。「あーそこに反応するんだ」「その部分に食いつくのね」という感じで、非常に顕著に違いが出ていておもしろかったです。
何に反応するかってやっぱり究極的な自己表現だと改めて感じました。
他にも色々と感じてメモしたことがありますが、自分の仕事や行動で表現していこうと思います。とにかく楽しかった。程よい混沌は快につながるのでしょうね。いつもこの「程よさ」をミスって失敗しますが、この感じでいこうと思います。
にしけい