「好き」と「執着」ってまた違う軸だよなぁという話。
僕は占いは好きなんですけど、占い自体に固執しているかというそうでもないんだなと最近気がつきまして。興味はあるし、おもしろいんですけど、そこに「自分」があるかって言われると違うんですね。
例えば「お前の占いはクソだ!デタラメだ!」と言われたときに、自分を否定されたような気持ちになる方もいると思うんですけど、「あ、そうですね、まだまだ知らないこといっぱいありますねー」という感じなんですね。だって、知らないことは知らないですし、体験していない占いがまだまだいっぱいありますから、もしそう言われたら単純にどういう知識や経験が足りないか聞いてみたいんですよね。
どうしても占いや特定の術や流派自体がアイデンティティになっていると、それが否定されたときに「自分が否定された」と思ってしまうようなんですけど、なんというか「自分」が入り込んでしまうと、占い自体の純度が下がってしまうんですよね。自己肯定したり、自分の承認欲求を満たすことが動機になっちゃうと、なんかこう「あー、不純物が入ってるのかなぁ」となってしまうんですね。
これは占い以外でもそうなんですけど、自分がやっていることや生み出したものに「自分」が憑依しちゃってるなぁという場合があるんですね。自分の念というか「自分!自分!」というものが行動や作ったものに染み込んでいるというか。
作品や対象物へ執着が起きると、途端に対象物としての純度が下がる感じがするんですよね。例えば漫画の世界に作者が出てくる漫画があります。それをネタとしてできるならいいんですけど、悟空とフリーザの戦いで急に作者の鳥山先生が出てきてフリーザを倒してしまったら、それってドラゴンボールの世界観の純度が下がってしまう気がするんですよね。
占うことも、占いの講座も好きで、占いの話ならいくらでもできるし、それでお金をいただいて生活しているわけですが、そこに「占いをしている自分が好き」という気持ちが入っちゃうと、おそらくこんなに続かないと思うんですよね。
僕は「続くこと」が大事だと思っているんですけど「自分」が入っちゃうと、感情やエゴが揺れ動くたびに「向いてないのかなー」とか「やめようかな」という風になるから続かないんですよね。気分でやめたり、気持ちが上がってきたから再開したりとなると、なんか信用できなくないですか?
「占いをやっているにしけい」を見てほしいのではなく「占い自体」を見て欲しいんですね。占いのおもしろさとか、こうやって使ったら当たったとか、こういう使い方もできるとか、そこが大事なのであって、それをやっている自分スゲーという風には全く思えないんですよね。だって、自分が思いついたり、考えついたものなんて、古今東西誰かがやっていることだと思うんですよね。先人たちが生み出して研鑽してきたリソースを使わせてもらって、活用させてもらっているわけですから、到底自分が生み出したんだ!すごいやろ!とは思えないんですね。
それでいて、その先人たちや書籍自体に固執するのもなんか違うんですね。リスペクトはしますし、好きな研究家や占い師さんはいますけど、その人が全てではないんですね。固執するということは「部分にとらわれること」なんです。僕の中では、ご相談に来られた方の問題や現状が少しでもよくなればそれでいいと思っているので、占いよりも役に立つツールがあるなら、占いにこだわらずそれを使ったほうがいいと考えています。
だって「冷凍ご飯をあっためたいです」っていうなら、電子レンジを使ったほうが便利じゃないですか。「五行の火を取り入れるために、火の象意である孔雀の絵を冷凍ごはんに貼り付けて…」とかやるよりも、チンしたほうが早いじゃないですか。
それでいて、何か占いが役に立ちそうな場面、自分が何か役に立てそうな場面があれば、惜しみなくそれを使う。目的がブレたり、目的が「自分」や「執着物」になってしまうと、誰も得しないんですよね。誰も得しないことって、誰もやりたがらないので、それは続かないんですね。均一に。フラットに。自分も歯車やコマのひとつなんです。
子供の発表会で主役ではなく「木の役」とか「岩の役」だったとしても、それが自分の役(やれること)なら全力でやるし、そこに「俺なら木としてこう動く、これからは木役が主役を取りに行く」とかやっちゃうと、劇としても役としても純度が下がっちゃうと思うんですよね。
というわけで、あなたのお仕事や趣味はいかがですか?
好きでやっていますか?執着でやっていますか?
何かうまくいかないのであれば「自分」が入っちゃっているのかもしれませんね。
にしけい