話を聞くとその人のまわりに起きている現象の抽象度を高めて考えると図や表が頭の中に浮かんできます。どの部分に引っ掛かりというかクセがあるか。個人じゃなくて全体の現象としてのクセ。
断易はドラマみたいなもので、偏りはあるけど断じ切れない有機性があって「許容」が生まれます。この仕組みを使って現象のバランスを見る。現象から卦を自分で作り出すような。モデリングするような。すると、スライムのような独特の形をした生命体が頭の中に生まれてきます。現象自体が生命体なんですね。イワシの魚群のようにそれ自体が生命で、個と全と境界はあるようでない。そういう生き物なんです。
そこからアナロジーをしたり、置換したり、話の具体度を高めていく。周易や易経の熟読やゲシュタルト往来はこういうときに非常に役に立ちます。先人たちが同じタイプの状況に直面したときに具体的にどうやって対応したのか。ここでの「先人」は自分が接した人々全てという意味です。人に会って話をすればするほど、本を読めば読むほど、体験をすればするほど具体例が増えていきます。
なので、最近「占う」という言葉に違和感が強くなってきていまして。もともと「鑑定」という言葉も違和感があって使っていなかったのですが、やっぱり「ご相談」という言葉がしっくりきます。ここ数年、占い師という言葉も違和感があって、肩書きはどうでも良くて、ただ目の前の仕事に熱中し、夢中になり、集中する感じです。
過去の記事もいくらか書いていますが、お話を聞いて何かしらの方針を打ち出すという行程の中に「自分」というものがあると非常に邪魔なんですね。自分という部分にとらわれると非常に邪魔で鬱陶しいんですね。例えば、それは自分が知っている占いの知識や、自分の偏見みたいなものだったりします。役に立たないわけではないけれど、それにしがみついてとらわれていると、いつまでたっても全体に近づけないんです。外から見るためには、外野になる必要があると思っていまして。
自分がなんとかしようと思ったり、自分が「占う!」とか、自分が「導くんだ」という気持ちがあったりすると、やっぱりそこにはまだ「自分」がいて、でもそれは最終的に全然役に立たないんですね。それなりのものになってしまう。だから、相手の力というかその場にあるものを利用・活用しながら組み立てていくイメージなんですね。
今のこの感じが完成形とも思えませんし、1ヶ月後にはまた全然違ったスタイルになっているかもしれません。ただ、1年前とか占いを始めたころと、感覚が全然違うんですね。肩の力が抜けたというか。「占いの筋肉」みたいなものがなくなったというか。まだまだ変化しそうな気配もあるし、ここでこうして文章に書き留めておくことに意味なんかないかもしれませんが、備忘録として。
会社を辞める前ぐらいからそうなんですけど、仕事と趣味と遊びと学びの境界がないんですね。もうそれらすべて含めて生活なんですね。起きているときも寝ているときも、とうの昔にスイッチがドロドロに溶けてなくなってしまったんですね。なので「占います!」「占いました!」という言葉も、自分の中では違和感というかしっくりこないんですね。朝ごはんとか寝るのと同じぐらいの感覚なんですね。「朝飯前」という言葉がありますが「朝飯中」という感じです。常にモグモグしている状態なんです。
それでもこうしてお金をいただけて、3人の僕似の子供たちに恵まれて、いろいろ全国飛び回れるのは本当にありがたいお話です。ありがたみ。ギターのCコードしか弾けないけど毎日ライブに出させてもらっているような忍びなさとありがたさを噛み締めて生きています。今日もコツコツ。一歩ずつ。
にしけい