これをやってる時間やエネルギーがなくなれば他のことができるのに。
もっと他にやりたいこと・やるべきことがたくさんあるのにどうにかならないだろうか。
効率。無駄なことを減らしたい。こういう気持ちは確かに大事です。
ただ、意外と無駄だと思うことや、やりたくないことの中にも大事なことがあったりします。
「ドラマ」って基本的に「起こらなくてもいいこと」の中にあって、それは「予期せぬこと」であって、だからドラマチックに感じられるわけです。
なので「無駄なもの」がなくなってしまうと、ドラマが起こらなくなります。もちろん起きて欲しくない場合もあります。
「なんでこんなことが起こるんだ」と現状に苦悩することもあるでしょう。
でも、起きて欲しくないんだけど、でもそれが起こらないと「楽しいこと」も一緒に起きなくなってしまうんですよね。
「生臭い」ところに「生」があって、だから臭いものに蓋をするのは清濁併せもつ「生(せい)」がなくなってしまうのです。
もちろん余裕がないときはこの「臭い」がキツくて蓋を閉じたくなってしまうのですが、やっぱりそういう刺激やドラマがないと「生」を感じられないんだなということに最近改めて気付きまして。
なんか効率化・無駄をなくすということに気持ちがいっていて、逆に余裕がなくなっていたのではないかと思います。
そんな背景もあって「効率化すべきもの」と「効率化すべきではないもの」の見極め方について、メルマガに書きました。
「効率化」をするべきタイミングをミスると実は生産性が落ちてどんどん非効率になっていきます。
何をしたいか、何をしているかによって割合は異なりますが、効率化していいのはタスク全体の20-30%だと僕は考えています。それ以外は「効率を追わない方が効率がいい」と思っています。つまり70-80%はクリエイティブにどんどん無駄をやっていくべきだと考えています。
詳しくはメルマガ(過去記事も読めます)に書いてありますので、ご参照ください。
合理主義の方、無駄が嫌いな方、そういった人の方が案外無駄なことをしていたりするかもしれません。
あとは身近に合理主義な人や効率重視の人がいて、その人に影響を受けている…ということもあるかもしれません。
この「効率化信仰」というのはどうしても「頭では確かに効率化したほうがいい」と納得してしまう分タチが悪くて、ついつい「じゃあこれやめておくか」「こっちのスムーズなルートを選ぶか」とそっちを選びがちなのですが、やっぱりドラマは起こりにくくなっていきます。
ドラマは「ピンチ」もあるのですが「チャンス」の場合もあります。むしろ「チャンス」である可能性の方が高いです。文字通り「機会」なのですから、それが与えられているだけ「チャンス」なのです。
というわけで同じようなことを2回書いてしまいましたが、今回の記事に関してはその無駄も許して欲しいなと願っています。
なんならここからさらに論旨とは全く関係のない短編小説を書いてもいいぐらいです。
あばよ!!!!
にしけい