「なぜ?」「どうして?」という「理由」を求める質問に甘えていた、いや、今も甘えていることに気づいてしまいました。楽をしようとしていたのだと思います。安心しようとしていたのだと思います。
学生時代に論理的思考を徹底させられたこともあり、どうしても抜けきれていなかった…という言い訳すら、甘えだと考えています。
これからしばらく、「理由を尋ねること」を意識的に禁じようと思います。
え?どうして?なんで「理由」を知ろうとすることは悪いの?
悪いわけではありません。理由探求は「安心」と「快楽」が得られる効果があります。
しかし、それが「誤ったものの見方」につながり、場合によっては発展の芽を摘んでしまう可能性を孕んでいます。
例えば、じゃんけんであなたはグーを出して、相手はチョキを出したとします。
「どうしてあなたは勝てたのですか?」と聞かれると、理由は簡単です。
「私はグーを出して、相手がチョキを出したからです」と答えるはずです。
しかし、自分がグーを出して、相手がチョキを出すに至るまでに、さまざまな背景があるはずです。つまり、「理由」は表層的で単一的な定義づけで、「背景」は多層的で多角的な定義づけが行われているわけです。
その日、そのとき、じゃんけんで自分がグーを出す瞬間を一時停止して、時間を巻き戻してみてください。
その日の朝のニュースの占いで「今日はグーを出すとよさそう」という情報を小耳に挟んでいたことが、じゃんけんに勝てた理由かもしれません。そうなると、朝のそのニュースを見るために、テレビをつけたおじいちゃんが「勝利の女神(めがじぃ)」かもしれませんし、占いを告げたアナウンサーが真の勝利の女神かもしれません。
理由と背景の違い
じゃんけんで勝った要因の層構造
理由
グーを出して、相手がチョキを出したから
→ 直接的・単一的な説明
背景
→ 多層的・多角的な文脈
さらに無数の要因が絡み合っている…
▶︎「理由」は表層の因果関係を示し、「背景」はその理由を成り立たせている深層の諸条件。理由だけを求めることは、新たな可能性を見落とす危険性を孕んでいる。
「理由」は物事をスムーズにさせる上で非常に役に立つ
このように、様々な出来事が発生した際の、「理由」は表層的で単一的な定義づけで、「背景」は多層的で多角的です。直接的と間接的と言ってもいいかもしれませんが、見えない「間接的な理由」がほぼ無数にあると言えます。
この「無数に続く背景探求」をやっていると、何にも辿り着けなくなるので、「とりあえずの理由」を求めます。そのときに出てくる言葉が、「なぜ?」「どうして?」といった言葉たちです。
無数に存在する背景の中から、「もっとも直接的っぽい表層的な理由」を提示します。そうすることによって、その場はとりあえずおさまります。
会社で「どうして出社が遅れたんだ?」と聞かれて、「あれは中学3年の春休みのことです…」と話し始めてみてください。絶対嫌な顔をされます。「この人、どうしたんだ?」という対応になるはずです。「寝坊しました」という「それらしい直接的っぽい表層的な理由」を提示することで、その場はすんなりおさまります。
「理由」の質問・提示は、人を安心させたり、物事を円滑に進める上で非常に役に立ちます。場合によっては、理由を尋ね続けるだけで会話が成立しますし、「どうして」「なぜ」といった言葉は非常にコスパがいい言葉なのです。
「Why」への甘え
それで、僕はこの「どうして」「なぜ」というものに甘えていました。甘え切っていました。砂糖を煮詰めてハチミツを足した汁ぐらい甘いことをしていました。人はそれっぽい理由をゲットすると、安心して、それ以上探索することをやめてしまう習性があります。それ以上追いかけなくて済むわけです。
反対に、追いかけられたくない・追及されたくない背景があったときに、人はテキトーな理由を捏造して放り投げます。まるでオオカミに噛みつかれないように、干し肉を放り投げるように。オオカミがその肉に夢中になっている間は追いかけられずに済みます。
でも、それじゃあダメなんです。僕は干し肉じゃなくて、もっと奥にある内蔵に噛み付く必要があるのです。「干し肉でいいや」と安心し切っていてはダメなのです。
論理的思考が一部でチヤホヤされていたり、それを身につけたいという方もいらっしゃるかもしれません。しかし、僕は一周まわって論理的思考を離れてみようと思います。
何度も言いますが、「理由」を追い求めて、それが手に入ることは「楽」ですし、「安心」できます。それはそれで使える場面はたくさんありますし、現代の世の中の大半がそれで成り立っています。
でも、それじゃあダメなんです。少なくとも僕はそう考えています。
安心や楽なことばかりしていると、考えが固定されていきます。新しい思考ルートを開拓するための意欲がだんだん失われていく、むしろ開拓する必要がなくなるんですね。それって老化の始まりだと思うんです。固定がはじまって、あたまが固くなっていく。
だから、「理由」というものに集約したくなったら、必死に抗ってみようと決めたのです。「もしかしたら、違うかもしれない」「他にも結果につながる背景があったかもしれない」と。
選択肢を狭める、減らすのは簡単です。
でも、「より良い一手」を選ぶためには一度選択肢を広げてみる必要があります。思考のルートを1つに絞らず、水平に複数用意するのです。今の僕にはこれがすごく必要だと感じています。
どうしてこんな記事を書いたかって?
あれは小学6年の夏休みのことです…
にしけい




