「象の絵を自由に描いてみてください(′◡‵)」「象について語りたいです(˶ᵔ ᵕ ᵔ˶)」

「群盲象を評す」という言葉がありまして。例えは何でもいいんですけど、この言葉にちなんで象にしましょうか。

一頭の象を囲んで絵を描いたとします。「象はこういうものです」といって象の長い鼻だけを描く人が大多数いるわけですね。象には他にも無数に特徴があります。でも蓋をあけてみると「象=長い鼻」という固定された認識で描かれた作品が多いわけです。

 

これが象です

 

象を尻から描いてもいいし、象の体を緑色で塗ってもいい。自分が見た通り、自分が感じた通り描く。表現する。それでいいはず。しかし「象はこういうものです。長い鼻をグレーで描いてください。それが正解です」というんです。そうなると世の中には「長い鼻の絵」が大量に溢れかえる。それが象の全てであるかのように。

 

それで「わしには象がこう見えるんです」と言って真っ赤な丸を3つ描いたりすると「頭がおかしいのか」とか「それは象じゃない」とか、この世界から切り取ろうとするわけですね。ないものとして、異物として除去しようとするわけです。

 

象を描いたぞよ

 

「象」を本当に知りたいのなら、いろんな角度から見た「象の絵」があったほうがいいわけです。ひとつの方向に収斂させられた、象の鼻だけ切り取られた絵ばかり溢れているんですね。もう一度言います。

本当に象を知りたいなら・・・・・・・・・・・、いろんな角度から、いろんな表現がなされた象の絵があっていいわけです。

「象は長い鼻を描けって言われたから」と言って、長い鼻の絵を描く。そしてそれが正解だと。それ以外は不正解で頭がおかしいやつが描くものです、と。自分なりに観察して、自分なりに考えて、吟味した結果描いた象の絵があったとしても、それが長い鼻の絵ではなければ「不正解」だとする。排除する。だからいつまで経っても「象」が何なのかちっともわからない。

「象について研究してるんですよ」「自分は象について専門家なのでよくわかっていますよ」と言いながら、鼻の絵だけを並べて、「これが象なんです」と自慢げに語る。そして、それを賞賛する人々。「やっぱりさすがプロはすごいですね!」「やっぱり象はこれですよね!専門家が言うから間違いない!」伝統。権威。歴史。専門家。ただでさえ「群盲象を評す」なんですよ。どこまでいっても象の全体は計り知れないわけです。それなのに「象は長い鼻です」というようなことをしてる場合じゃないんですよ。

「象」を本当に知りたい、象を本当に学びたいのなら、行動が変わってくるはずなんですよ。選択が変わってくるはずなんですよ。本当に知りたい人がとるべき行動をとれば、少しだけ「象を知ること」に人類が一歩近づくわけですよ。僕がこんなことを書くということは、占いの話なんですけど、他の分野でも見られる現象だと思います。自由に象を見て、描いて、何が悪いの?

こんなことを書くと「”鼻を描く人たち”がたくさんいるから、”耳の絵を描く人”が目立てるんじゃない!感謝してよ!」という話を展開する人もいますけど、目立ちたくてやってるんじゃないんですよ。素直にやってるだけなんですよ。象について知りたいだけなんですよ。特別でも何でもないんですよ。

素直に描かれた象の絵。僕はそういう絵が好きです。その人が見た象、その人が考えた象。丁寧に描かれていなくてもいい。わかりやすく描かれていなくていい。そういう絵が僕の世界を広げてくれる。少しでも象を知る手がかりになる。僕はそういう絵に価値があると思います。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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