あなたの手元にあるスマホやパソコン。
このスマホやパソコンがここにあるのは「誰の手柄か?」と考えてみます。
お金を出して購入したあなたの手柄?
発注した事務の女性?
販売した会社?
製造したメーカー?
部品を作った町工場?
企画した開発者?
輸送した運転手?
もしこのスマホやパソコンが「誰の手によってここにあるのか?」を明確にしようとしたとき、非常に曖昧になるはずです。線引きしようにもできないんですね。
それでも、スマホやパソコンがあなたの手元に存在し、今日もこうしてブログを読んだり、連絡を取ったりできるわけです。
そうなってくると「自分の手柄だ!」とか「あいつのせいだ!」と断言できることってあるのでしょうか?
あなた自身が今こうして存在しているのは「あなた」の手柄でしょうか?
あなたを生んだ人?
あなたを育てた人?
あなたに教育した人?
食べ物やお金をくれた人?
病気や事故のときに助けてくれた人?
仕事をくれた人?
「今のあなた」を作り出しているのは、果たして誰なのでしょうか?
例えば、今あなたは自分のことを嫌っていたとします。うまくいっていないなぁ。もっとこうだったらいいのに。それを「親のせい」とか「会社のせい」と言えるのでしょうか。
逆にあなたがうまくいっていたとして、それを「自分の努力の成果だ」とか「自分には能力や才能があるからだ」と言えるのでしょうか。
あなたが生み出したり、考え出したアイディアは果たして、あなたの100%オリジナルと言い切れるのでしょうか?
いろいろなものが混ざり合って今ができています。どこまでいっても混沌なのです。分離しているように見えても、それは形式的で、実際は曖昧なのです。
このような僕の主張も、どこまでいっても「僕が考えたこと」とも言い切れないんですね。もしかしたら、僕は誰かに洗脳されていたり、地縛霊か何かに取り憑かれて、この記事を書かされているかもしれません。「こういう記事を書け」と銃をつきつけられながら書いているかもしれません。(痛いのは嫌なので撃たないでください)
そんなことを考えながらキーボードを叩き文字を打っている余地があるということは多少は「曖昧さ」を受け入れられているのかもしれません。しかし、それすら本当に曖昧なのです。
もう一度聞いてみます。
「あなたの今」を作り出しているものは何ですか?
あなたの今を作り出しているのは、自分、親、学校の先生といった「特定の存在」のみの影響なのでしょうか?
どこまでいっても「部分」しか見ることができませんが、少しでも多くのことを体験したり、知ることができれば、少しだけ「全体を見ること」に近づけるはずです。
こうして日々考えていることを文字で表現して発信できること、読んでくださる方がいること、本当にありがたいなと思います。
にしけい