「モノづくり」をしている人によくお会いします。自分も興味があるのかもしれません。「モノづくり」をしている人たちを見ていて感じることは「突き抜けているもの」「イカれているもの」ほど高い値段で取引されているように感じます。
「それだけでやっていく」「それだけしかやれない」ぐらいの、なんというか「思い切り」のようなものを感じる人が作るものは素人目で見ても何か感じるものがありますし
そういったエネルギーとか時間とか人生のようなものを賭けずにケチった人の作品は、いくら「売ろうと」一生懸命それっぽく着飾ってもあんまり何も感じないんですね。
利益とか商売とか材料費とか集客とかを考えた途端、中途半端なものになって「なんだ、そんな感じのものか」という風になってしまうなーと感じます。
利益とか常識とか相場とかまわりの目みたいなものを無視して、自分なりの「自分の最強のもの」を追い求める人が作るものは、何度も言いますが素人の僕でも「あ、なんか他と違うな」とわかります。このあたりは言葉にしにくいところがあるのですが「モノづくり」を生業にする、それで食っていく…という覚悟が伝わってくるというか。
「モノづくり」を教える教室や講座をしたり「普及」のほうを頑張る人もいれば、自分の手で作ることに信念をもつ「作家」のような人もいれば、モノを紹介する「キュレーター」的な立場の人もいます。「イカれている世界」を持っている人はどのルートでもイカれています。
すごく残酷な言い方になるかもしれませんが、僕が見ている限りこれらが「中途半端」になっている人ほど、うまくいっていませんし、なんだか悩んでいる人が多いです。「作家」なのか「売り手」なのか「講師」なのか、ブレブレな状態、よく言えば「安パイなフェーズ」にいる人は、何かを失うことはないけれど、大きなものを得られずに悩んでいるように見えます。
どんなルートでもいいんですけど、「勝負」とか「集中」している人ほど、すごいものをアウトプットしているように見えます。カメラの師匠に教わった言葉の中に「フィルムカメラのほうが失敗ができない分、集中するし、デジタルよりも上達が早くなる。今の人たちは撮り直しができるから集中する機会が少ない」というものがあります。この言葉、本当にそうだと思います。
例えば、その辺に転がっている流木と、1000年に1回しか穫れない樹木だったら、やはり後者のほうが希少な材料な分、失敗が許されないこともあり、緊張感というか集中力の度合いが高いと思います。なんというか「勝負すること」をケチると、ケチった分、しょうもないものになってしまうんですね。
集中が熱中になり、それが加速すると「忘我」の状態に至ります。一種のトランス状態で、外側の世界に飛び出すことができます。これは時空間を超越した世界になります。集中するには1本1本勝負する必要があります。たぶん「あ、これすごい」と思うものってこういう「忘我」の世界に入って初めて作られるのではないかと思います。
僕自身が「アート」とか「モノづくり」とか「芸術」といったものに造詣があるわけでもなく、素人なんですけど、やっぱり「勢い」というか「旬」みたいなものを感じるものって高値で取引されていることが多くて「あ、やっぱり」となります。
モノづくりに携わる方々からのお仕事のご依頼を受けることもけっこうあるので、自然と「モノづくり」というものに興味が湧いてしまうのもありますが、やっぱり「おお、これは!」というものを見たときとそうでないものを見たときの違い言葉にしておきたくて、筆をとりました。
単純に「イカれている人」の話を聞くのは本当におもしろいんですね。自分の世界を子どもみたいに目を輝かせて話してくれるんですね。そしてお話していると、言葉じゃないところで、なんかこう「うんうん、わかるわかる」となります。
踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿保なら踊らにゃ損損。
いってきます!
にしけい