2019年頃から、zoomを使ったオンラインの講座やオンラインご相談を結構やっていました。なので、コロナ騒ぎが起き始めた2020年に入ってからも生徒さんたちやお客様たちはすんなりオンラインに順応してくださいました。これが非常にラッキーでした。そこから2年間はテレワークやオンラインが主流になり、もともとオンラインでサービス提供を構築していた僕としては特に大きな支障は出ず、むしろ段々とオンラインの講座に慣れて使い熟してきていました。なので、2020、2021年は単発講座も含めてかなりの数のオンライン講座を開講しました。これはこれで僕にとっては大きな収穫でした。
しかし、その中でやはり「リアルで講座をやりたい」という気持ちがありました。ご相談に関してはこれもありがたいことにコロナ騒ぎの中でも9割以上が対面でのご相談でした。僕の場合は、ビルや家屋や土地を見に足を運ぶ案件が多いですし、お墓を探しレンタカーを借りて山道を走ったり、親戚一同の会議に僕が参加する形で方針を占ったり、何かと現地でお仕事をせざるをえない場合が多いのでしょうがないと言えばしょうがないのですが…。
授業にならない問題
なぜ「リアル講座をやりたい」という気持ちが強かったかというと、デジタルよりもアナログのほうが圧倒的に情報や刺激が多いので、受講される方が自然と気づいたり、自分で発見できる機会が多いからです。臨場感があったほうが、より占いの面白さや、技術的な面も伝わりやすいからです。
オンラインやテキストの文章でも伝わる人は伝わりますが、やはりデジタルなので情報量が圧倒的に少ないのです。対面でのご相談の方が圧倒的に情報量が多いですし、人を観察してナンボの相術はやはりリアルの方が圧倒的にやりやすくなります。デジタルはデジタルの良さがあるんですけど、やっぱり軽くて薄いんですね。
そんな僕に追い討ちをかけたのが「言語化への疑問」です。オンラインではテキストや言葉で伝えます。何度も言うように、これで伝わる人は十分伝わるのですが、ここにきて「言語化できない」「理論化できない」という問題にぶち当たりました。要するに生徒さんから「なぜですか?」と聞かれても、自分でもよくわからず、うまく説明できなかったのです。
理由や理論が説明できないので、授業にならないんですね。笑
何度も言うようにリアルでアナログだったら情報量が多いので「なんとなくそう思いました」と言ったら、伝わるものもあったかもしれませんが、デジタルになってしまうと断片的になっているので、分からない人には全く分からない授業だったと思います。これは今でもかなり反省しています。
何周も回って見えてきた手相
最も顕著だったのが、五百羅漢手相組手という講座です。500人分の手相を解説するというかなり強行的な講座です。最終的に700名分の手相を解説することになったので、次やるときは千手観音で1000人か…でも案外いけそうだなと思いました。
この講座の最終回では350人分の手相を解説しています。4時間で350人分の手相ですから、1人あたり40秒ほどで解説しなければなりません。一気に手相を見たのでこのときは手シュタルト崩壊を通り過ぎて「あ、わかる…」という領域に達してしまったのです。「分かろうとする」のではなく「分かる」という感じです。(一時的なものかもしれませんが)
世界各国には様々な占術がありますが…。最近よく思うのですが、本当はもともと道具や暦や知識などを使わずとも「分かる人たち」がいて、その人たちを真似て「分かろうとした人たち」が現代の体系立った理論や知識を構築したのではないかなーということです。だから手相も「手から何か分かる人」がいて、その人を真似て「手の線を見ているに違いない」とか「シンボルに秘密があるに違いない」という「分かろうとした人たち」が、あれやこれやと現代の占術理論を構築したのかもしれない…というようなことも考えています。(逆に「分かる人」が理論や説明を求められ、とりあえずそれっぽい後付けで生み出した理論体系もあるかもしれません)
いかんせん、ここ2、3年の授業は「何でそう判断したのかわかりません」「理由を挙げるならいちおうこんな感じ…」ということが多く「言語化、理論化って意味があるのかな」とか「もう言葉は限界かも知れない…」と考えたりもしていました。なので、実はブログを書こうにもなかなか書けずにいましたし、本も感覚で突っ走るように書かないと書けなかったんですね。
「手相占いの使い方」という本で、従来の手相をぶっ壊しているのですが、これも結構効いたかもしれません。自分がやってきたことを破壊して、そこを離れることで、また新たな局面が見えてくる。こういうことがこれまでにもよくあったのですが、皮肉にもこの本を出したあとの五百羅漢手相組手で、改めて手相のおもしろさのようなものを感じてしまったのです。厳密に言えば「手相」というよりも、「手」から読み取れる「何か」ということなのですが。数年前から感覚としてあった「手を見ているようで見ていない」という感覚がより「これでいいじゃん」という確信めいたものになった感じです。
デジタルとアナログの間で
今年に入ってからとにかく書籍を書いています。何やかんや言いながらも言語化や図式化を図り、何とか伝えようとしています。しかし、やはり自分自身「デジタル」に頭が偏り過ぎていたこともあって、中毒症状のように「アナログ的なこと」を求めるようになりました。本を書いていると、外に飛び出したくなるんですね。もちろん結構いろんなところに出没して、飛び出してはいるのですが、やはりそれでもデジタル寄りになっていました。そのバランスを取るためになのか今年に入ってから「アナログ的なこと」を求めて動き出しました。
この「アナログ的なこと」というのは「より未知である」ことが重要です。だから「初めてのこと」が大事です。あとは体を使うことが大事だと思うので、今後も体を使うことを重点的にやっていこうかなと考えています。
また、冒頭にもお伝えしたように「体験する講座」をやっていく予定です。「分かろうとする」ではなく「自然と分かる」ということを体験できるような講座です。いくつかアイディアがあるので、実験的に開催していきますので、またお付き合い頂けると幸いです。
引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。
にしけい