意図しない変化やイレギュラーが発生したときに、理由を求める人もいます。なぜそれが起きたのか、どうして私なのか。これらは「理由」や「納得」を得られることで、気持ちを落ち着かせて次に進もうとするためのライフハックとも言えます。行動や事実に意味や理由を付けることで、正当性や妥当性のようなものが付与されると、それ以上悩んだり、自分を責めたりする必要がなくなります。このような機能・効能をもたらすツールは何千年も前から存在していて、占いもそのひとつでしょうし、最近のAIも同じような役割があるように見受けられますが、ツール自体にそのような機能があるというよりも、どんなものでも使う人次第で「理由や納得の生成」のツールになりうると考えています。要するに、「どういうふうに使うか」にその人の人柄が表れるわけです。
「理由や納得の生成」のツールとして用いられる場合、壮大で話が大きくなる場合が多いです。例えば、自分が何かの試合に負けたとします。その悔しさやモヤモヤに理由をつけるためには、「相手の監督がオリンピック選手だった」とか「風が強くて目に砂が入った」といった普通の言い訳では自分を納得させられない可能性もあります。もしかすると、まわりから「風が目に入ったことと負けたことは関係なくない?」とツッコミを入れられる可能性があります。思い込み装置なので、思い込める理由や後押しが必要なのに、そういった思い込みを邪魔するものがあると、目的が達成できなくなります。なので、「相手は超能力者で強力な魔術を使う相手だった」とか「会場に到着する前に雷に打たれた」といった自分の気持ちを納得させられるような壮大なストーリーを生成します。そういった話のほうがインパクトがあるので、後世にも伝えられやすくなります。自分が勝った相手も、自分が負けた相手も、話を盛っておいて損はないのです。盛り得なんですね。
どの部分を切り取るか
僕は占い(特に抽象性の高い占い)を使っていると、その容赦のなさに驚くことがあります。言い訳しようがないというか、事実を突きつけてくるというか、斜めから切り込んでくるというか。「そのまま出てるな」と感じることがよくあります。しかし、同じシンボル(例えば易の卦など)を見ても、理由や納得の生成としてアウトプットする人もいると思います。同じものを見ていても、感じ方が違うんですね。それは僕が書いた文章やアウトプットした情報も同じで、受け取り手次第では理由や納得生成の材料に用いられることもあります。
どの部分を切り取るか。どの部分を切り取りたいか。そこに「その人」が表れますし、それはそれ以上でもそれ以下でもなくて、ただの「生き残り方の違い」なのです。「僕」という人間をどう使うか、どの部分を切り取って見ているか…でだいたい「その人」がそのまま表れるなぁという気がしています。そして、それは僕も同じです。誰かを見て思うことに、僕が表れているのだと思います。
にしけい