会話でのリアクションについてのお話。
会話において大きなリアクションは確かに安心感を与えることがあります。「わかる!わかる!」と即座に反応することで、相手は「話を聞いてもらえている」と実感を得られると思います。しかし、すぐに「わかります」と返事しているからといって、本当に理解しているかどうかは定かではありません。もしかすると、全く話を聞いていない可能性もあります。
相手の話を聞いて、様々な背景などを鑑みると、易々と「わかります」と言えないこともけっこうあります。そういうときに「ほー」「あー…」といった曖昧な反応になってしまいますが、相手の話に無関心だったり、話を聞いていないわけではないんですね。
「わからない」と言える勇気
人は様々な経験や思考の末に「わからない」という結論に至ることがあります。即答できないこともあれば、自分の気持ちを正確に表現できる言葉が見つからないこともあります。こういった「わからない」状態をネガティブに捉える必要はないと思うんですよね。むしろ、熟考した上で「わからない」と正直に伝えることは、それはそれで誠実だと思うんですよね。
表面的な同意や共感よりも、真摯に向き合った結果の「わかりません」の方が、建設的なコミュニケーションを生み出すことにつながると思うんですよね。「わからない」と正直に告白したほうが、その状況や気持ちを伝える側の人も「新しい言葉」を模索する作業が増えます。それは確かにめんどうなことかもしれませんが、何かを生み出すためのコミュニケーションへと醸成させるには、「わかりません」も大事だと思います。
すぐに線引きできないこともある
決めたい。迷いたくない。はっきりさせたい。明確にしたい…これらの欲求は「不安を減らしたい」という自然なものです。でも、世の中には簡単に線引きできないことや、現時点では判断できないことが多く存在します。むしろそういったもののほうが多い気がします。何かを生み出すコミュニケーションへと昇華させるためには、境界性が低い曖昧な状況を受け入れる余裕があるかどうか…もカギな気がします。
「リアクション薄いよね」「なんで返事しないの?」「話聞いてる?」とよく言われます。でも、無関心なわけではないんですよね。きちんと話は聞いているんです。
確かに、何かを話している人は「吟味」や「建設的な意見」を求めている人のほうが少ないと思います。今抱えている気持ちや情報を瞬時に処理したいという欲求を満たすほうが重要かもしれません。
そのためには「話を聞いてもらえている実感」のほうが大事ですし、オーバーリアクションの人のほうが好意的に受け止められるでしょう。僕のような壊れかけのロボットのような反応が曖昧・反応がない…というコミュニケーションは悪手だと思います。
しかし、テンポよく大きなリアクションをすることが本当に相手を尊重することになるのかは疑問です。リアクションが曖昧で薄くてもじっくり受け止めようとしている人もいますし、テキトーに済ませたい人がオーバーリアクションになることもしばしばあります。リアクションが大きい人のほうが安心できるから、世間一般には評価されちゃうんですけどね。
反応・返事するためにも境界性を作り出す必要があるんですよね。役割とか前提とかこだわりとかそういったものが固まっているときのほうが反応しやすいのと同じなんですよね。
「あの人はコミュ障だ」「自分はコミュ障だ」といったジャッジするときにも境界性が固定される必要がありますし、自称コミュ障は十分反応や返事ができるコミュ強だと思いますけどね。どっちでもいいですけど、なるべく誠実にやっていきたいなと思います(その誠実さみたいなものがあってもなくてもどっちでもいいのかもしれませんね)。
自称・コミュ誠 にしけい