ゲームセンターでの原体験と「分かり合えない」ことが前提にあるからこそ「尊重」が生まれるのかも

5歳か6歳のころのこと。だいたいのことは忘れているんですが、この出来事だけはなぜかはっきり覚えていまして。おばさんから100円をもらって、従姉妹のお姉ちゃんに連れられて近所のスーパーにあるゲームセンターに行ったんですね。100円玉を握りしめて、どのゲームで遊ぼうかゲームセンターをうろうろして品定めします。

「これにしよう」と決めて、パトカーか消防車が左右に揺れ動く乗り物のゲームに100円を投入しました。「シュッパツシンコー」という録音された声と共に、軽快な音楽がなり、乗り物が動き出します。

すると、どこからともなく近くにいた女の子が僕の隣の席に乗り込んできます。知らない女の子です。のりものゲームに、勝手に乗ってきて、勝手に楽しんでいるのです。ゲームが終わった後に、「たのしかったね」と言い残し、その子は去っていきました。

 

怒りの話

 

母にその出来事を話すと、「あれ〜50円はもらえばよかったね〜」と笑っていましたが、僕は怒っていました。その女の子が大人になって再会して…みたいな漫画みたいな美しい話じゃなくて、これはただの「怒りの話」なんです。

このときの原体験からなのか、僕はいまだに「自分の世界に勝手に入られること」「強引に便乗されること」「ズカズカ領域に踏み込む図々しい行為」といったものがとても嫌いなんですね。自分の体験や経験という領域に踏み込んできたことも許せないし、勝手に「たのしかったね」と感情や感想を決めつけることの強引さみたいなものも許せなかったんですね。

人によっては「ちょっとぐらい、いいじゃん」とか「ケチじゃん」と思われるかもしれませんが、ルールや順番を守らず、お金も払わずに乗り物に乗ってきた子のほうがケチです。文字通り「便乗」しているほうがどう見てもケチなんですね。知らない子だったからムカついているとか、知ってる子だったからよかったとかそういう話ではなくて、なんかその図々しさみたいなものに幼心ながらムカついていたんですね。

「◯◯◯だったんでしょ」とか「こういう気持ちだったんだね」と決めつけられることも嫌いなので、「共感」とか「慰め」みたいなものがすごく嫌いなんですね。なんというか、すぐには言い表せない・うまく言語化できないこともあって、それを少しずつ言葉にしようとすることが大事なのに、安直な決めつけによって予定調和的に楽になろうとする姿勢が嫌いなのかもしれません。

なので、いまだに「おまえらになにがわかるんだ」「わかったつもりになるなよ」という反骨心みたいなものがあって、物理的にも精神的にも侵略されることが嫌いなんですね。勝手にやっていることなのに意味付けされたり、勝手にやっていることに便乗されることが嫌なので、意味もわからないし、便乗もできなさそうなことを無意識に選んでやっているのかもしれません。

こうして考えると、一方的・非対等・非自律性のようなものが嫌いなのかもしれません。強引さや図々しさの背景には相手の意見や考えを尊重しない、一方的な姿勢があります。ゲームセンターで勝手にのりものに乗ってきた女の子も「一緒に乗っていい?」と一言あれば、僕の意思を確認するという「対話」になり、尊重を感じられたかもしれません。しかし、それがなかったため強い怒りを感じたのかもしれません。

 

「相手を優先している・理解している」という暴力性

 

話は少しそれますが、「あなたについていきます」「あなたを優先します」といった言葉。これらは一見すると相手を大切にしているように見えますが、実はその逆かもしれません。こういった言葉の裏には「あなたを自分の世界の中に位置づけたい」という欲求が隠れています。まるで相手を自分の地図の中の一点として固定しようとするかのようです。この場合の「あなた」というのは、自分にとって都合の良い部分を切り取っているだけなんですね。

「あなたの全てを受け入れる」という言葉も同様です。これは不可能なことを約束しています。人間は他者の「全て」を知ることはできません。実際には、自分にとって都合の良い部分だけを見て、それを「あなたの全て」と勘違いしているだけなのです。この「全てを理解している」という幻想は、相手を自分の理解の箱の中に閉じ込める行為であり、「あなたの存在を拒絶する」ことと同じくらい暴力的です。

真の尊重は別のところにあり、それは「他人は完全には分かり合えない」という前提から始まるはずなのです。完全に理解することを諦め、それでも対話を続けようとする姿勢こそが「尊重の始まり」なのです。わからないからこそ、「これでいいですか?」と確認し、「どう思いますか?」と尋ねる。この謙虚さが真の尊重の第一歩なのではないでしょうか。

あの日のゲームセンターでの出来事を考え続けて、ようやく自分の中で整理がついてきました。あのゲームセンターで感じた怒りは、単なる子どものわがままではなく、人間としての尊厳や自律性を求める正当な感情だったのかもしれません。「勝手に乗り込んできた女の子」と「あなたのことを全て理解しています」と言う人に共通するのは、対話の放棄です。相手に尋ねず、勝手に解釈し、一方的に関わろうとする姿勢。これはコミュニケーションというより、ある種の侵略行為と言えるかもしれません。それは一種の暴力とも言えるかもしれません。

だから僕は「あなたの気持ちがよくわかります」といった「共感っぽい言葉」に違和感を覚えるのです。本当の共感とは、わからないことを認めた上で、それでも寄り添おうとする態度から生まれはずです。「わかったふり」ではなく、「わからないけれど、知りたい」という姿勢こそがあって、初めて対等な関係性と言えます。

「図々しさ」や「強引さ」といった行為を抽象的に表現するとしたら、「自分の感情や価値観の範囲内に相手を取り込もうとすること」なのかもしれません。完全に分かり合えないからこそ、対話が必要ですし、せめてもの確認(エクスキューズ)が必要になると思うんです。

過去に下記のような記事も書いていますが、同じようなことを主張しています。

対等な関係性の核心:テリトリーの尊重と敬意の力
https://nishikei.jp/nishikei-pon-mind/50148/

分からないままでいいですし、分類しなくてもいいんです。分かり合えなくてもいいんです。対話を放棄し、分かったつもり・分かっているふりを続けるほど、図々しく卑しく醜くなっていくのかもしれません。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。著書は50冊以上。三児の父。詳しくはこちらから。

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