僕は基本的にはオタクなのですが、「本当のところはどうなんだろう」「実際に使えるものなのか」ということが気になり、それを重点的に探求しています。
占いを研究している人たちはたくさんいるのですが、探求の動機が「自らの優位性を示したい」という人も結構多くて、意見交換のたびにすれ違いや議論がストップしてしまうことがよくありました。
「権威性を示すための知識」だったり「自分を装飾するための研究」という感じです。コンプレックスのようなものがあって、それを埋めるために理論武装・知識武装しているようにも見えました。
僕が気学を習っていた先生も最初はすごく尊敬していたのですが、最後のほうは会話が噛み合わず、残念な感じになってしまいました。
「誰が悪い」とかではなく、学んでいる分野は近くても「根本的な方針」のようなものが違っていたのだと思います。
前提が崩れてしまうと、蓄積してきた知識や自分が確立してきた地位のようなものが揺らいでしまうと危惧していたのかもしれません。どの業界も同じかもしれませんが、「研究者」と名乗る人の中には前提条件を疑うような根本的な質問や議論を避ける人が多いようにも見えます。
本当に「立場」というものは厄介だし、何かを探求する上では邪魔にしかならないと考えています。「異端児」「おかしな人」「独自の路線」という風に切り捨てるのは簡単だと思います。時には「稚拙な理論」「知識が足りない」といった言葉で切り捨てる人もいるでしょう。
しかし、このように「切り捨てようとする」「分けようとする」という行動は軸が完全に固定されている、つまり自身の立場に固執していないと発生しません。
本当は知識や経験が豊富な方と議論したいのですが、柔軟性のある方が本当に少ないなと感じます。何度も言うように、基本的に僕はオタクなので、自分が発見したり、気づいたことは誰かと話がしたいですし、共有したいなと思っています。
小学6年の頃にドラクエモンスターズというゲームが流行したのですが、デスピサロを配合する組み合わせを初めて発見したときの興奮、嬉しさ、早くクラスメイトに話をしたい、情報交換したい…!あの感覚です。
おそらく今もそんな気持ちで生きていますし、占いやその他のことに関しても同じです。
小学生のころは「立場」がそこまで明確ではなかったのだと思います。しかし、大人になるにつれて、いろんなものを手に入れるにつれて「立場」が形成され、そういったものに縛られる人が増えてきたのだと思います。
小学生のころのように「立場」を無視して情報交換したり、お茶や食事をできる方が同業者にはほとんどいませんし、小学生のころの雰囲気で生きていると煙たがられることもしばしばあります。たまに「みんな大人になってしまったんだな」と何だか悲しくなるようなこともあります。肩書きとか立場をアピールされても、ふーん、そうなんだーとなります。
夏休み中の我が子を眺めていると、親近感が湧きます。僕は大人になった今でも夏休みの自由研究をしているような感覚なのです。自分の子供よりも子供かもしれません。そんな気がしてなりません。
だからこそ純度が高い成果物や純度が高い人を見ると「あ、この人は小学生だ」と勝手に親近感を感じてアプローチをしたくなりますし、そうじゃない人がアプローチしてくると「この人、大人なんだよなぁ」と思ってしまいます。立場があると打算性が出てくるんですね。純度が下がってしまって、小学生の僕としては「なんか大人怖いな」と感じてしまうわけです。
「ピーターパン症候群」という言葉がありますが、あれとはまた全然違うんですね。ピーターパン症候群の基本定義は「成長することを拒む」ですが、成長はめちゃくちゃしたいんですよ。むしろ成長しかしたくないぐらいです。
ウェンディのような母親的な依存先となる人も特に欲していませんし、どちらかというと、教室の後ろで一緒にゲームボーイで対戦したり、ジャンプの話をできる友達が欲しいんですね。
ピーターパン症候群というより、「ゲームボーイ版ドラクエモンスターズ症候群」に近いと思います。
と、好き勝手言っておりますが…。
僕が本を書いたり、講座をするのは「小学校の休み時間のような場」を作りたくてやっているのかもしれません。やっぱり根っこがオタクなので、話をしたいんですね。自分が発見したことや気づいたこと、自分が好きなことは発信したい。だからこれだけ続いているのだと思います。
こんな僕でも受け入れてくださる方、遠くからそっと見守ってくださっている方には感謝しかありません。担任の先生がいっぱいいるような気持ちです。ありがとうございます。
にしけい