分明コンプレックスとその克服

どうしようもないモヤモヤ、言葉にできない気持ち、憤り、不安、不満、葛藤…こういったハッキリと言語化できない状況を「混沌」とします。

反対に、きっちりと「識別」「分類」「分別」されて白黒ハッキリとした状況を「分明」とします。

混沌と分明は対義的です。混沌が水なら、分明は火です。

混沌の要素が強い状況であればあるほど分明を求めます。

分明は…

・わかりやすいもの
・表面的なもの
・きらびやかなもの
・美しいもの
・差別化が図られているもの
・知的なもの
・特別なもの
・他とは違うもの
・言語化されたもの
・分類できるもの
・科学的なもの

などが入ってきます。

 

分明優位社会・日本

芸能関係や華やかな世界や流行となっているもの、大衆化されているものは「わかりやすい」必要があります。

なぜなら「分類できないもの」はハッキリしないため不安やおそれを感じる人が多いからです。

なぜそのような人が多いかと言うとこれらの「分明なもの」の方が「良い」とされ、分明なものの割合が多いからこそ僅かな「混沌」に違和感を感じる人が多いのです。これは科学や言語や文字の発達における功績と言えるでしょう。

混沌とした自分にコンプレックスが強ければ強いほど分明なものに強い憧れを抱きます。

なぜ混沌とした自分にコンプレックスが強くなるかというと、いろいろ理由は考えられますが「分明であることを押しつけられた」とか「分明であることが良い」という教育を受けた…ということが考えられます。

「競争」というものは「勝者」と「敗者」というように優劣をつけます。これは「分けること」なので「分明」の要素が強い行動だと言えます。

「知識」というものは「識別すること」なので、これも「分けること」であり「分明」の要素が強いです。

「学力社会」「格差社会」といったものを強く意識させられることは「分明を押し付けること」になります。「マナー」や「モラル」や「法律」も「善悪」を「分ける」ものなので分明です。「性別」も分明ですし、「結婚」もはっきりと意思表示をすることになるので分明と言えます。

つまり「一生懸命勉強して、いい大学に入って、いい会社に入って、結婚して、子供をもうけて…」という教育はかなり強烈な「分明の押しつけ」になります。もちろんある程度は分明は必要ですし、あれば確かに社会的には優位になる場面が多いです。

しかし、中にはそこまで分明に興味がなかったり、得意ではない人もいます。「どっちでもいい」し「なんでもいい」という状態です。「混沌」の方が肌に合うというか、混沌の方が好きという人です。

「目的」や「目標」も明らかにすることですから分明の要素が強いのですが、明治時代ごろから民衆の間にもこの「目標」や「目的」をはっきりともたせる風潮が浸透して、現在もまだまだ根強く「目的目標信仰」が強いように見えます。

混沌の要素が強い人は目的や目標意識が薄いですから「悪い」とか「はっきりしない」と切り捨てられてきたようにも見えます。留年や浪人といった「はっきりしないモラトリアムな状態」も「混沌」なので、分明社会においては「よくない」状態なのです。

こういった「分明によって傷つけられた混沌好き」たちは、大人になるとコンプレックスとして「分明」に強い憧れを抱き「混沌であること」に強い嫌悪感を示します。

分明コンプレックスを克服するには?

この「分明コンプレックス」を克服するには2つ方法があって

1. これでもかというほど分明の中に飛び込む
2. 混沌である自分を受け入れる

この2パターンだと思いますが、どちらも最終的には2の「混沌である自分を受け入れる」ことにつながります。

混沌・分明という対立を俯瞰して捉えることで「分明コンプレックス」を乗り切れるはずなのですが、両者を俯瞰するためには「ジンテーゼ」を生み出す必要があります。

ジンテーゼは「対立する2つの要素を両方成立させる条件」であり、例えば「喫煙者の意見と非喫煙者の意見を両方成立させるには…?」という考えのもと生み出される新たなアイディアがジンテーゼです。

「テーゼ(正)」と「アンチテーゼ(反)」を両方成立させる考えがジンテーゼであり「混沌」と「分明」を両方成立させることで、分明コンプレックスを克服できるのです。そのためには両方とも成立させる必要があるので、自分の中に「混沌」があることを一度受け入れる必要があります。

これをやらないといくら「私は分明、私は分明…」と言い聞かせても、分明と混沌が分離する一方なのでジンテーゼが生まれてきません。

というわけで「分明なもの」に強く憧れたり、惹かれてしまい、バランスを崩している人は「老子」あたりを読んでみてください。

「分明」の中には「分類」というキーワードも挙げましたが、占いなどでも「分類したがる人」が非常に多いです。分類中毒者なので、僕は勝手に「分類厨」と読んでいます。(と分類している時点で自体も分類厨なのですが…)

でもまぁあれです、分類は楽しいですよね。本棚とか整理したり、家の中を掃除したりするのも分明行為ですし、実際「分明」によるメリットや恩恵は大きいです。

大きいのですが…そちらに傾倒しすぎたり、混沌であることを悪として切り捨ててしまうとキツくなってくるかもしれませんね。四捨五入できない0.4444444444444…みたいな状況もありますし、割り切るまでに時間がかかるものもありますからね。

はっきりしない時間も楽しめるといいですね〜

待ち合わせ時間とかも「7時54分」とか中途半端な時間にしてみたり、待ち合わせ場所「日本」といった具合に曖昧にしてみるのも混沌を受け入れる練習になるかもしれませんね。

混沌を受け入れるために今日のブログは「オチ」はなく混沌とした状態で終わりま〜す

「今日のブログは」とか言いながらいつも混沌としてま〜す

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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