お仕事で熊本に来ています。スケジュール帳を検索すると熊本は2022年以来だったので、3年ぶりになります(なんかもっと来てる気がしますが)。地方の出張は車に乗せてもらうことが多いですが、今回はレンタカーを借りて運転しています。
僕はようやく光り輝くゴールド免許になったのですが、運転時間が短い割に事故率が高いので意識的に運転時間を控えています。身分証として役に立つものが他に出てきたら免許を返納したいぐらいです。昨年ちょうど免許の更新だったのですが、ちょうど坊主真っ盛りだったので、人相が悪すぎて「出所したてで免許を更新した人」みたいになっています。たまに、身分証として提出すると「え?」という目で現物の顔と見比べられます。免許証の写真の写りの悪さも免許返納願望を高める要因になっています(自分が納得のいく写真使わせて欲しいよね)。
お墓や家系のお仕事の依頼は高確率で山奥に行く事になるので、自動車購入を検討した時期もあったのですが、極力乗らないように心がけているので、購入に至っていません。過去に知り合いの社長さんにレクサスの高級ラインを運転させてもらったときに「すげー!こんなに乗り心地が違うんだ!これならちょっと欲しいかも…」という気持ちが0.5moLほど湧いたことはあるのですが、上述の理由により自動車への憧れは2秒で消えてしまいました。なので、いちおう「いい車に乗りたい」「運転が好き」という方々の気持ちはわずかながらは理解できます。

車の便利さを実感しつつ、失うものについて考える
今回は割と運転時間が長い旅なのですが、やっぱり自動車は便利です。すごく便利です。それを改めて感じています。でも、「便利すぎて失ってしまうもの」もあるのかなと考えていました。
車があると、だいたいどこでも行きたいところに行けます。でも、それゆえに計画や段取りを立てる必要がなくなります。電車の時間を調べたり、乗り継ぎや乗り換え、ルートを考えたり、なるべくロスを減らすために工夫を凝らす必要があります。また、電車移動だと荷物や買い物も工夫する必要があります。本当に必要なものは何か。どうやったら目的地へ効率よく辿り着けるか。自然と調べることや考えることが増えます。
車は本当に便利です。渋滞に巻き込まれなければ自分のペースで移動できますし、電車の時刻表に合わせなくてもいいし、他人と同じ空間にいなくてもいいし、荷物の制限もありませんし、目的地までの経由も自由に選べます。自分のペースを乱されることなく、快適に移動することができます。本当に便利な移動手段です。
便利さの代償について
こんな便利な乗り物に乗り続けていたら、僕はきっと不便さに対する耐性がどんどん下がっていくんだろうなと思いました。電車が遅れたらイライラするし、乗り継ぎがうまくいかないとイライラするし、重い荷物を持って歩くのも嫌になるし、知らない人と同じ空間にいるのも煩わしく感じるようになってしまう気がします。世の中の「当たり前の不便さ」みたいなものを受け入れられなくなってしまうんじゃないかなと考えていました。
生きていると、基本的に不便で理不尽なことだらけです。思い通りにいかないことの方が多いし、他人のペースに合わせなければいけない場面もたくさんあります。制約もたくさんあります。そんな中で「車なら全部思い通りになる」という環境に慣れすぎてしまうと、日常生活の小さな不自由に対する免疫がなくなってしまうんじゃないかなって。
真の自由とは何か
そんな自動車移動の自由度を好む方もたくさんいると思います。それは完全に同意です。車の利便性は本当に素晴らしいものです。ただ、運転しながら考えていたのが、僕が自動車を運転し続けると、「自由が好き」というよりも「不自由を異常に嫌がる」ようになってしまう気がしたんですね。「全部自分の思い通りにしたい」「◯◯ではないと嫌だ」といった具合に「許容範囲」みたいなものが狭くなってしまうというか。もしかしたら、そういう背景から「車が好きで、電車は嫌い」という人もいるかもしれません。
真の自由って、どんな状況でも楽しめる柔軟性から生まれると思うんですね。電車が遅れても「お、今日はゆっくりできるな」と思えたり、重い荷物を持って歩いても「いい運動になるな」と思えたり、知らない人との偶然の出会いを「面白いな」と感じられたり。車の便利さを享受しながらも、時々は意図的に不便な移動手段を選んで、「不便さ」への耐性を維持しておくことが大切なのかもしれません。便利すぎる環境に慣れすぎると、結果的に心が窮屈になってしまうような気がしました。
でも、車って本当に便利だから自動運転もUber国内解禁もめちゃくちゃ賛成なんですよね。ただの運転が下手な人の言い訳記事でした。ちゃんちゃん。
にしけい