分かったような気になって、また分からなくなって…

本当に重要なことほど、言語化が難しいなと感じます。考えを整理して、言葉にできたはいいけれど、どこにでもあるような自己啓発っぽい内容になってしまうし、潤いのある水々しく「生きている葛藤」だったものが、急に乾燥してカリカリになった化石のように死んだものになってしまう。それでも言語化しようとする、言語化したいと思ってしまう、矛盾のようなものを感じるわけです。生きていることを証明するために死ににいくような。そういう葛藤がたくさんあって。

何かを疑いもせず、信じ切っていられる状態というのは、幸せなことなのかもしれません。それが真実であると信じて、それを繰り返して行った結果、それが真実ではないと気づいてしまったときの絶望感、それを誤魔化しながら繰り返すことができなくなってしまう、何とも言えない喪失感。夢中になって遊べるおもちゃがひとつずつ消えていく…厳密にはそのおもちゃ自体はあるんだけど、もう夢中になって遊べなくなってしまうから、ただ転がっているガラクタみたいな感じなんですね。宝物のようなおもちゃが、モノクロで色褪せて何も魅力を感じないものに変わり果てる。それ自体が変わってしまったわけではなく、自分自身が変わってしまった。冷めてしまった。サンタクロースは親だったと気づいてしまったような何とも言えない感情が体中にモヤモヤと広がるわけです。

固定されたイメージ、固定していたイメージが壊れる。これは本当にきついことです。でも、やればやるほど、その固定されたイメージが壊れるんですね。「ほどほど」でとどめておけばいいのに、最後までとことんやってしまう。それで壊れてしまう。そういったことを2〜3年前ぐらいから繰り返してきているような気がしています。「結局何もなかった」という絶望のようなものです。

「これは絶対的なものだ!」と思っていないのに、それを口にすることへの抵抗感のようなものがあって、それは僕自身が「自分は美しくて純粋なままである」という前提を壊しきれないからなのかもしれません。そんなこと誰も気にしない、気にしていないのに、「自分は正しく生きたい」「自分は純粋な存在だ」というようなエゴが、葛藤を生み出しているのかもしれません。

僕はことあるごとに「純度」というものにこだわってきた気がします。混じりっけなしで、エゴや欲のようなものが消えた上での探求心や好奇心のようなものにこだわってきた気がします。それが至高の存在であると。この考えは今も変わらないのですが、この「純度」という考えが自分を苦しめます。より純度が高い探求をしなければならないと考えていて、それ自体がエゴであり純度を下げている気がします。

「雑念をなくして、瞑想に集中しなくては」という考え自体が雑念になってしまうかのように、潔白や高純度のようなものにこだわればこだわるほど、それが純度を下げてしまうような、そういう状況に陥っているのかもしれません。

 

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ひとつ、思索があって。

ここ半年の間に中心よりも「端」が重要なのではないか…と思うようになりまして。核心や中心ではなく、「端」なんですね。「端」って何が起きているかというと、直進性の終点なんですね。そこで方向性が変わるんです。そして、それが決まることで「中心」がわかるわけです。なので、「自分の現状」を知りたかったら、この「端」を知ることができれば、間接的に自分を知ることにつながるのではないかと思索していました。

「自分」というのは一番自分でよくわかりません。分かろうとすればするほど、「覗く」ことになり、この「覗く」というのは視野を狭めたり、断片的な情報しかとらえられないことになります。もちろん、覗かないよりはマシだし、覗くことで見えてくることもあるのですが、自分そのものを見る・知るためには、視野を狭めるよりも広める必要があって、そのためにもやはり「端」が重要になってくるんですね。

ハタから見ると、「この人ってこうだな」とか「こうなっていきそうだな」ってなんとなくわかるんですけど、自分自身のことになると本当にわからなくなるんですね。そうなったときに、この「端」というものが重要になると考えていて、この端というのは直進的に進めない部分になるので、何かを「湾曲しなければいけない部分」なわけなんです。まっすぐじゃなくて、曲がってるところ。これがそのときの「端」であって、「湾曲そのものが端である」ということなんですね。何を湾曲させているかがその人の「中心」や「今の立ち位置」を知るためのヒントになると…という考え方です。

これは「話していないこと」「言語化できない部分」「矛盾する箇所」にその人の「核心部分がある」という考えに似ていて、これを利用して文章や言葉から何かを掴んだり、どうなっていきそうかを予測したりすることに通じるものがあって、既にルイ・アルチュセールという哲学者が「徴候的読解」という風に名前をつけて説明しているようです。空白や書かれていないことに答えがあるという考えで、中心や眼に見えるものを追いかけるのではなく、その人が意識していない、意識の外側、端っこのほうを観察するような感じです。

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それで、冒頭にあった夢中になれず、客観視しようとする・冷めた目で見るといった行為というのは、僕自身が核心に触れたくない、自分自身を知りたくない、知られたくないという表れなのかもしれないと考えていて、これ自体が僕が作り出している湾曲(端)であり、核心なのかもしれません。

「生きている葛藤」みたいなものに価値があると考えている点、文章化すると無味乾燥でしょうもないものになってしまうと感じてしまう点、そういったものも含めて、自分自身に価値があると考えているのかもしれません。一言でいうとめちゃくちゃプライドが高い状態です。

とはいえ、今自分が誰かに何かを提供できるとしたら、何か役に立てるかもしれないという希望を見出そうとするのであれば、もしかすると「葛藤の肯定」なのかもしれません。今思うと僕自身がやってきたことは「疑ってしまう人が孤立しないように何かを発信すること」なのかもしれません。素直に生きて、素直に疑って、どうしてだろう?何かおかしいぞ?という混沌を抱えて生きる。そこに自分の価値があると考えているのかもしれません。それゆえ、ずっと「真実が解明されなさそうなおもちゃ」を探し求めているのかもしれません。

そして、こうやって改めて文章にしてみると、やっぱり「なんだか軽いなー」と思ってしまうあたりが、なんとも逃れられないエゴな気がしています。しかし、今の自分はそんなもんだし、それ以上でもそれ以下でもないのだと思います。自分の価値とか、立ち位置とか正解って存在しないんだろうけれど、それでも何かを求めてしまうのはなぜなんでしょうね。

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【追記のつっこみ】

とはいえ、よくわからない・よくわかっていないことはまだまだありますし、わかっていないことばっかりです。その中で、1つでも多くのことをわかって、わかったつもりになって、死んでいくことが、とりあえずの目的なのかもしれません。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山生まれ。19歳から手相占いを独学で始める。化学系工学修士。商社での開発営業職を経て占いを生業に独立。専門分野は手相・易・気学・家相・風水・墓相など。著書50冊以上、世界15カ国での実占経験。三児の父。

よくご質問をいただくので、手相占いの記事・書籍・講座などについてまとめました。

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