最近、なるべく毎日ブログを更新すると決めて実行しています。ブログに書くテーマは無数に存在しますし、油断すると抽象的な話をしがちなので、なるべく範囲を限定して具体的な話になるように書いてみています。なぜこんなことをしているかというと、実は理由があります。
僕は勝手にYOASOBIのAYASEさんとCreepy Nutsさんを尊敬しています。彼らがタイアップする曲の歌詞やトラックは、原作の漫画やアニメの世界観を非常に高い解像度で表現しています。「曲」という具象の塊から、彼らの漫画やアニメの原作へのリスペクトや理解度の高さが伺えます。いくらお金をもらって仕事だからといっても、あそこまで特定の世界観を掘り下げて表現できるのは大したもんです。彼らに感服しすぎて、一周回って賞賛の言葉が「大したもんです」になってしまいました。様々な賞賛の言葉を考えたのですが、ゲシュタルト崩壊を起こして「大したもんです」に収束してしまったのです。決して上から目線なのではなく、好きすぎる人に会うと変な声が出てしまうアレと同じような現象が起きています。
具体化されたものというのは「範囲を限定されたもの」でもあります。おそらく彼らも様々な「縛り」の中で、作品を世に送り出しているはずです。「アーティスト」というと一見自由そうに見えますが、制約と誓約があるからクラピカがあんなに急激に強くなれたのと同じように、縛りがあることで彼らは洗練されたワードや曲を生み出せるのでしょう。もう、あれは「大したもんです」の中でも「ビッグ・大したもんです」の部類に入ります。
誰が言ったか知りませんが、「神は細部に宿る」という抽象的な言葉があります。この「細部」を「具象化物」と言い換えてもいいのではないかと考えています。僕なりの意訳になりますが、「その人の凄さ(生き様)は限定された範囲に表れる」という感じでしょうか。むしろ「範囲を限定されたところに表れる」のかもしれません。範囲を限定したからといって、僕らしさのようなものが消えるわけではないということに気がついたのです。
大衆性とわかりやすさは違う
あと、僕は「大衆性」と「わかりやすさ」を混同していたと最近気づきました。これは深く反省しました。「わかりやすさ」は理解しやすさのレベルを指し、「大衆性」は社会における普及度を指しています。わかりやすくても大衆性が低いものもあるし、わかりにくくても大衆性が高いものもあります。
例えば、「ケイバッジ」というスポーツは、石や円盤を投げて的に当てる古代ケルト発祥のスポーツです。ただ、投げて当てるだけというわかりやすいスポーツです。しかし、ケイバッジはスコットランドの一部地域で行われているのみで競技人口が非常に少ない大衆性の低いスポーツです。
反対に、僕らが使っているスマホは本来その仕組みは非常に複雑で、わかりにくいはずです。操作自体はシンプルながらも完全に理解している人はごく少数なはずです。しかし、スマホは一人一台持っていて当たり前の大衆性の高いデバイスであることは自明です。
釣りたてのマグロを手渡ししていた
わかりやすくするためには、特定の範囲を切り取って限定する必要があります。僕はこの「特定の範囲を切り取る作業」を非常に嫌っていましたが、「切り取られていない(加工されていない)もの」を処理できるエネルギッシュでハングリーさを兼ね備えた人しかキャッチできないため、それはそれで「範囲の限定」を行なっていたと気づいてしまったのです。
例えるなら、マグロの全部のおいしさを知って欲しいから、釣り立ての大型マグロをドーンと渡して、「これ食べれる人だけ食べてみな!」というようなことをやっていたわけですね。そんなの渡されてもどうやって食べるんだよという人たちが大半で、ごくごく少数のそのままのマグロをなんとか食べようとする強者(モサ)たちに範囲を限定してしまっていたわけです。範囲の限定をしたくないと考えながらやっていた行為自体が、範囲の限定につながっていたという自己矛盾に気づいてしまったわけです。
確かに、食べにくいとなかなか食べられないのでお腹が空きます。お腹が空いた時に食べるマグロは最高に美味しいと思います。そういった点を考えると、食べにくいマグロを自分なりに解体しながら時間をかけて食べる作業というのは、よりマグロを美味しく食べるためのプロセスになるのかもしれません。
しかし、YOASOBIのAYASEさんとCreepy Nutsさんの曲は、食べやすいし濃いんですね。要素を抽出して濃くしてあるんです。それでいて食べやすくしてあるわけです。これは凝集に凝集を重ねた結果だと思いますし、凝集はいかに範囲を狭めていくか…という作業であり、「縛り」が必要になるわけです。彼らと比べることすらおこがましい話なのですが、僕は縛りのない世界でのうのうと、のびのびと生きていたのだなと気づいてしまったわけですね。
いや、逆に言うと「縛られたくない」というのは自分で視野を狭めることにもつながります。「縛られたくない」というのは「マイペースにやりたい」という風にも言い換えることができます。それって「自分ができること」の範囲を狭めることになるのではないかと最近気づいてしまったんですね。
「範囲を限定される」と「範囲を限定する」というのは違いますし、「範囲を限定されること」で占いの効力が発揮されることも分かっている以上、「範囲を限定されること」が自分の能力やスキルを上げることにもつながるのかもしれない…と考えると、今後年齢を重ねることも少し楽しみになりつつあります。もしかすると、今よりもできることが限られてきたら、また何か扉が開くのかもしれません。
ということで、ブログの毎日更新と何かしらテーマを絞った記事の投稿は、そういった背景のもと取り組んでいます。自分から絞り出されるもの、抽出されるものは何なのか。もしかしたら何の味も旨味もない空っぽなものかもしれません。チーズ味かもしれません。引き続き、お付き合いいただけると幸いです。
にしけい