高校1〜2年ぐらいから、やっていることや考えていることが全く変わっていない気がするんですね。高校生クイズや献血ボランティアの集まりに参加するために高速バスに乗って県外に出かけたり、寝っ転がって漫画を読んだり、ポケモンをしたり、こうしてホームページを作ったり、テキストを書いたり、絵や漫画を描いたり…。高校生ぐらいからやっていることがほとんど変わらないんですね。
今年で37歳になるのですが、自分はもっとすごいことになりそうだという「漫画の第一話の主人公感」みたいなものを捨てきれない厨二病の症状は今も1000%ありますし、同級生たちが会社の大事な役職を任されたり、家庭をもったりしている様子をみていると、一緒に冒険していた仲間たちが去っていくような感覚を覚えるんですね。
僕も子供がいますし、家庭をもつ身ですし、同級生たちの物語もそれはそれで尊重すべきだし、尊敬できるのですが、「あれ?みんな冒険しないの?もうやめたの?」という気持ちになったりすることもあります。冒険したり、無謀なことをすることが正しいという判断軸はとうの昔に捨てているのですが、いつまで経っても「冒険に旅立つ気持ち」が捨てられなくて、心の中にゼルダの伝説のリンクみたいな自分がいるんですね。
「これってピーター・パン症候群なのでは?」と考えた時期もあって調べてみたのですが、なんかこう完全に合致しているかというとそういう感じもないんですね。
・大人になりたくない、責任を取りたくない
・依存心が強い、怒りっぽい
・ナルシズム(自己愛)が強い
・淋しがり屋
・真の友人がいない
・立派なキャリアに憧れるが努力は嫌い
この中だと、「真の友人がいない」ぐらいしか、当てはまらないんですよね。そもそもまず「真の友人」の定義が難しいですよね。だいたい「俺たち親友(マブダチ)だよな」とか言ってくる人のほうが怪しいですし、「オー!ワタシタチ友達!」とか言ってくるのって一部のインド人かエジプト人ぐらいなので、言葉によって「友人」を再定義すること自体難しいのに、「真の友人」ってさらによくわかりませんよね。
「ナルシズムが強い」はあるのかもしれませんけど、ナルシズムの定義を改めて知るとあんまりしっくりこないんですよね。漠然と「自分はすごくなる」という未来に対しての期待はあるんですけど、「今の自分はすごい」とか「もっと褒めてほしい」という気持ちはないので、これもあんまり合致しないんですね。むしろ「自分はずっと未熟な小僧だ」「俺たちの冒険はこれからだ!」感が、ぬぐえなくて「今のままの自分が最高だ」という感覚もあんまりないんですよね。
責任回避や現実逃避ではなく、現実と理想の両方を包含している気がするので、ユング心理学で言うところの「永遠の少年(プエル・エテルヌス)」の概念とも少し違う感じなんですよね。「コレジャナイ感」が常にあるわけではなく、「自分に合っていることをしているなという実感(満足)」がありながら、「もっと自分はいけそうだ」「もっと伸びしろや成長の余地がありそうだ」という期待があるんですね。
むしろ、僕からすると、会社とか社会の風潮を迎合するほうが「バーチャル」を生きている感じがするんですよね。だって、まだまだ僕らって未熟じゃないですか?全体の砂粒1粒だと思うんですよ。社会的に何かしらのポジションや立場を獲得したとしても、それ自体がなんかバーチャルという感じがするんですよね。こうやって書いてみると、もしかすると、「セルフイメージの固定」に対して反抗し続けているのかもしれません。
禅の「初心」に近いかもしれません。「可能性に満ちた状態」が続いているからこそ、可能性を減らして、セルフイメージを固定していく同級生たちに「もったいない!僕なんかよりもっとすごく有能で賢いのに!」と期待しているのかもしれません。占いのご相談や生徒さんたちに苛立ちを感じる場面があるのも、もしかすると「あなたはもっと可能性があるはずなのに、なんで自分で芽を摘んでるの?なんで自分で諦めてるの?」という気持ちが根底にあるのかもしれません。
結局、僕が抱え続けているのは「永遠の冒険心」というより、「人間の無限の可能性への信頼」なのかもしれません。それは自分自身に対してだけでなく、出会うすべての人々に対しても向けられる期待の眼差しです。この感覚は、時に周囲との温度差を生むこともありますが、僕からするとそれは「現実を見る」という行為のひとつだと考えています。人間の可能性を信じ続けることこそが、最も現実的な理想主義だと思うからです。
にしけい