坊主になってから3週間ほど経とうとしています。すでに1センチほど伸びたので、ゴシゴシと金物を擦るようなタワシのような状態から、柴犬の背中のような手触りになりました。シャンプーも少しずつ泡立ちが良くなってきましたが、相変わらずタオルで一拭きするだけで乾いてしまいます。
坊主になってから会う人たちのリアクションを楽しんでいます。待ち合わせで気づいてもらえない。話しかけても気づくまで不審者?という目で睨みつけられる。幼稚園の行事で「新しいお父さんなの?」という感じの気まずい空気が流れる。「声はにしけいさんだけど、本当に本人なんですか?」「親戚の野球部の男の子に似ている」といった具合にみんな好きなことを口にします。
中でも非常に興味深いリアクションは「今までどんな顔だったか思い出せない」というものです。にしけい脳内博士たちが虫眼鏡をもって集まってくるほど興味深いリアクションです。人間は何をもってその人をその人だと認識しているのでしょうか。「印象」という言葉がありますが、その人をその人たらしめる「印」(紐づける特徴)があって、それがなくなると「今までのにしけい」と紐付けが行われなくなり、その瞬間「今までのにしけい」というものは消えてしまうのかもしれません。人間の変化への順応の早さに驚くとともに、意外とあっけなく特定の固定観念は壊れてしまうものなのだなと驚いています。
坊主っぽい人に目がいくようになった
また、自分自身も街や電車の中で「坊主っぽい人」を観察するようになりました。今まで同じように見えていた坊主っぽいヘアースタイルも、微妙に差異があることに気づけるようになりました。あまりにも遠すぎる、違いすぎると、違いがわからないんですね。例えば、バッタを見ても知識がなければオスなのかメスなのかもよくわかりません。よくよく観察してみると違いに気づくのですが、「わかる」のではなく「わかろうとする」ことしないとわかりません。バッタと人間は遺伝子レベルで違う生物です。自分とバッタの間に「接点」「共通点」があれば、身近な存在と感じられ興味が湧くかもしれません。興味が湧くと「違い」がわかるようになるかもしれません。
よく大きめの書店を徘徊して、立ち読みをする人と読んでいる本を観察してまわるのですが、当然と思われるかもしれませんが、多くの人たちが「自分と関連性が高い本」を読んでいるんですね。年齢を重ねてきたら病気のことが気になるし、これから家を建てようとしている人は「マイホーム」の本を手に取っています。興味がない雑誌を手に取るためには意識する必要があって、ぼーっと何も考えずに本を徘徊すると「自分と関連性が高そうな本」に吸い寄せられるように手を取ります。
今見えているものは今の自分なのかも
バッタがオスなのかメスなのか、美バッタなのか、色気があるバッタなのか区別がつかないのは、まず「自分ごと」として考えることができないからです。僕が今まで「坊主っぽい人」に興味が湧いていなかった、違いがあることにも気付けなかったのは、「自分ごと」として考えていなかったからだと思います。坊主になってみて初めて、坊主の世界に入り、坊主に対する解像度が上がるわけです。自分が坊主になるまでは「坊主」と「バッタ」の解像度は同じぐらいだったと思います。
そう考えると、ただ坊主にするだけで、見る世界が変わって見えます。「同じ景色を見ていても違うものを見ている」というのは、AさんとBさんという異なる人物の間だけで起きる現象ではなく、同じAさんでも時系列が異なれば発生するということです。坊主前と坊主後で見えている世界が違っていますから、もしかするとそれはもう「別人」なのかもしれませんね。そうなってくると、「今までどんな顔だったか思い出せない」という反応も自然なことなのかもしれませんし、今見ている景色は本当に「今だけしか見えない」のかもしれません。
「今の自分」を過剰にありがたがる必要もない
そう考えると、1秒1秒は貴重なものでありながら、コンビニでペットボトルの水を購入したときに出てくるレシートのようなどうでもよさも感じられます。例えば、鳥羽水族館の近くには特産品である真珠を取り扱うお店(お土産店)がズラリと並んでいます。中には潰れているお店もありますが、本来は貴重である真珠も、それを取り扱っているお店がたくさんあると、「希少性とは?」と疑問が湧いてきます。これと同じように「1秒1秒が貴重」というのは、「貴重な瞬間」がたくさんあるわけですから、全然貴重ではないんですね。「貴重だ」と決めているのは、貴重がりたい人、真珠店で真珠を売りたい人たちだけということです(真珠店は例え話なのであしからず)。
今しか見えない世界は今しか見えないのであれば、明日や来週ぐらいには見えなくなっているかもしれません。見たくないものが見えなくなるかもしれないし、見たいものが見えるようになるかもしれません。そして、それは本当に些細なことで変わる可能性があるということです。それは過去に起きた出来事も同じです。ちょっとしたきっかけで忘れてしまったり、印象が変わったりします。本当にいい加減なものです。人は何を見て、何を信じて生きているのか。「信念」とか「志」といったものも1秒後には変わっているかもしれません。この記事も最初に書こうと思っていたことを書いている途中で忘れてしまったので、これぐらいにしておきます。
にしけい