「才能」や「素質」という言葉が才能や素質を潰す可能性。

「才能」や「素質」といった言葉の存在が、才能や素質を壊す可能性があります。極端な例になりますが、Aという才能がありますと言われて「A」に意識した行動をとる…ここまでは良いのですが、Aを意識するあまりA以外の選択肢を捨てる可能性もあります。あなたの才能は○○です。あなたは△△という素質があります。これらは「制限する」ものであり、無数にある選択肢の中から方向性を限定することになります。これはこれでメリットがあるのですが、素質や才能があると言われても何も行動しなかった場合、全く意味がありません。また、ひとつの物事にも複数の要素が混在しています。例えば「野球」と一言で言っても「投げる」「打つ」「走る」といった複数の要素が混在しており、「カーブが得意なピッチャーに対するバッティング」「2塁にランナーがいるときのバント」といった具合に細分化していくと無数に「条件」が分化していきます。野球でも「打つ」のは下手でも、「投げる」ことは得意な可能性もあります。そんな状況で「野球は合わない、サッカーの方が向いています」と言われたときに、本当は得意だった「投げる」という素質が発揮される場面が消える可能性が高まります。「サッカーの方が向いています」という才能や素質を提示することは、逆にいろいろな可能性を潰えさせてしまう可能性があるのです。

「制限すること」(分化すること)で、効率良く自分の得意なことが見つかる…というのは、僕は遠回りだと考えています。なぜなら「試す範囲」が狭くなるため、逆に見つかりにくくなる可能性が高まるからです。何度も言いますが、何事も条件や要素の割合は様々です。草野球チームで野球をするにしても、大学野球で野球をするにしても違いますし、同じ草野球チームでも対戦相手や条件によって「結果」は変わってきます。誰かに「素質」や「才能」を尋ねる癖がある人は「楽して自己肯定したい」「楽して自分は特別で何かしら素質や才能があると思いたい」という潜在意識があるように見えます。そして誰かから「あなたは○○の才能がある」と言われて、満足してそこで何もせず終わってしまう人がほとんどです。それはそれでその人の自由なので構いませんが、本当に自分に合うものを求めているのであれば「とりあえず試す」ということしていかないと、たどり着けません。

僕自身今占いで食べているので、占いの素質があるように見えますが、全くそのようなことはないと思っています。そして、最初から占いをしようとは全く思っていません。ここにたどり着くまでにアホみたいにお金と時間とエネルギーをかけていろいろ試しています。買っては捨て、始めてはやめ…の繰り返しです。そして今は「たまたま」占いで食べていくことができていますが、「日本」で「平和」で「占いというものの認知度がある」といった複数の条件が揃っている環境だから、今はたまたまやっていけていると考えています。

例えば、昨年ニュージーランドを旅行しているのですが、ニュージーランドの北島のロトルアという街では「占い?何それ?」というぐらい「誰かにお金を払って占ってもらう」という文化がなかったのです。今僕の仕事が成り立っているのは、今の条件が揃っているからです。今の条件が揃わなくなることもこの先出てくるでしょう。むしろ変化しない方がおかしいです。そうなったときに僕が「占いの才能しかない」といっていつまでも同じことをしていたら、生きていくことはできません。もしかしたら、明日からニュージーランドのロトルアに吹き飛ばされて帰ってこれなくなったら「占い」では食っていけないかもしれません。そうなったら僕はもしかしたらギターを練習して路上で歌い始めるかもしれませんし、Youtubeで動画を見て手品を習得してなんとかチップをもらって生きていくかもしれません。

そんなときに「才能」や「素質」という言葉にしがみついていたら、自分で行動を制限してしまい死んでしまうかもしれません。正直「才能」や「素質」という言葉は「プライド」や「自尊心」を満たすための言葉です。何かを諦めたい人や、自分を慰めたい人が「才能」や「素質」というものを見出そうとします。もちろん「得意」「不得意」「好き」「嫌い」はあると思います。それはそれで自然にやっていることですし、無理なことは自然と続かなくなります。それとは別に「自分にどんな才能や素質があるか?」と誰かに尋ねることは、非常に危険な行動と言えます。「自分の可能性を潰してしまう可能性」と「身動きがとれなくなる可能性」です。そして何度も言いますが、才能や素質を聞いたところで実際に試してみないとわからないことだらけです。言葉にした途端、分化されてしまいますから、領域と領域の間に壁が出来てしまいます。何度も言いますが、実際は何事にも複数の要素が混在しています。誰かに聞いている暇があるなら、とにかくやってみて試すしかありません。さらに「今は」出現していないものでも、時期や時代が変わったり、試していくうちに「これいいな」と思えるものが出てくる可能性もあります。

この文章を読んで「にしけいはなんて冷たいひどいやつだ」と思う人はもう一度読み直してみてください。生きにくいのであれば、なおさら「今までやってきたこと」と同じようなことをやっていてはダメです。行動が制限される、それは呪いです。「才能」や「素質」という言葉は自分にかける呪いです。そんなものありません。本当にやってみないとわからないし、もしかしたら今は見当もつかないかもしれません。変化が早い時代だからこそ、チャンスがくるかもしれませんし、ピンチもくるかもしれません。何がホームランになるかわかりませんし、何がデッドボールになるかわかりません。不自由になりたい人なんていません。でも自分で不自由になろうとする人がいます。才能や素質といった幻想は、進研ゼミの勧誘の漫画ぐらい幻想です。勉強と部活を両立して充実している幼なじみが優しく進研ゼミを紹介してくれるというのが既に幻想です。そんな進研ゼミを母親に熱心に「これだったら勉強するから」と説得して始めたのに、最初のオマケのオモチャをもらって2ヶ月でやめた僕が言っても説得力はないかもしれませんが…。あの漫画、うまいこと出来てるよなあ。

にしけい

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書いている

西田 圭一郎 (にしけい)

1987年富山市生まれ。化学系工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いとWeb開発などを生業にしています。趣味は読書と旅とポケモン。文章を書くことが好きです。三児の父。詳しくはこちらから。

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