普段あまり感動しない僕ですが、家の間取りを見てグーッと心が掴まれるようなことがたまにあります。それは間取りから「愛」を感じたときです。自分でも臭いことを言っているってわかっているんですけど、ちょっと聞いてください。
家とか建物というのは、偏向性が出ます。その家に住む人々が無意識に望む形になるのですが、全員が均一に建物の効果を受け取るわけではなく、人によって差があります。生まれた時から個体差があるように、同じ家に住んでいても受ける効果は不均一なんですね。なので自然とその建物と相性が良い人と、悪い人という優劣のようなものが出てきます。
これは「50メートル走」をしたときに、タイムがみんなバラバラなのと同じです。早い人もいれば遅い人もいる。でも別の種目なら別の結果が出る。ただそれだけなんです。「家」という基準ができるからこそ、相性の優劣が出ますし、偏向性が出てきます。
僕は言葉はあまり信用していません。でも、行動や現象は信用しています。
例えば「妻を愛している」と言葉で言ったとしても、実際の行動がそれに伴っていなかったら、行動の方が事実なんです。
「妻を想ってこの家を建てた」という人がもってきた家の間取り。その家が本当に「妻が優位になるように建てられていた間取り」だったときに僕は心から愛を感じます。嗚呼、なんて美しい愛なんだろう…この張り出しすごく愛情深い…このトイレの位置、最高にピュアだ…この階段の向き、本当に妻が好きなんだな…。言葉と間取りの偏向性が一致する…純度が高い愛に大御所演歌歌手のようなコブシのきいた唸り声が出てしまいそうになります。
家というのは建てるまでにエネルギーやお金や時間がかかります。それゆえなのか、非常に濃厚な「現状」を表します。揺るがないんですね。建物にその人たちの癖のようなものが色濃く出るんですね。この家はおばあさんが虐げられているんだなとか、この家は長男の態度がデカいんだなとか、この夫婦は仮面夫婦なんだなとか。偏向が顕著に出ます。
「言葉」と「間取り」が一致するということは、意識と無意識の偏向性が一致しているということなんですね。つまり、すごく素直に生きているってことなんです。多くの人たちが何か誤魔化して生きています。言葉と行動や現象が一致しないんです。だからこそ「純愛を感じられる間取り」に出会えた時の感動はひとしおです。感動映画を見終わったあとのような恍惚とした余韻に浸ってしまいます。「いいもの見せてもらいました、ありがとうございます」と心の中で深々と礼をします。
無数にある現象・形・相も、その瞬間を作り上げるまでに「背景」があります。
本当によくできているな、美しいな…と感心させられます。だからこのお仕事がやめられないんだなと思います。
にしけい