「義」って何だろうなと考えて調べてみたのですが、抽象化すると「特定の構造全体を充足させるための個(部分)の振る舞い」のことを指すようです。四角形を形作っているものは「直線」や「角」などがありますが、これらは四角形という「全体」のために機能しています。
義母・義父といった言葉も「家族という構造全体」を充足させるための振る舞いですし、儀式も個人の意思などを無視して全体を優先したときに起きてくる振る舞いです。蟻(あり)も巣やアリの巣という構造を維持するために1匹1匹が役割をもって振る舞います。
「義理チョコ」とか「義理人情」の「義理」も、本人の意思ではなく全体の流れや構造を維持するための行為や振る舞いのことを指します。「義理堅い」というのは、全体の構造を維持することを優先する人物を指すわけですね。
そう考えると、この文章を作っている1文字1文字もすごく「義」をやっていますね。文脈を構築するために決められたルールで自我を殺して並んでくれているわけです。もし1文字1文字が自我をもって好き勝手やったとしたら、Ψ안3مяßÇあ龍θ7ñகЯ∆みたいなことになってしまうわけです。文字ちゃんたちがいかに律儀かを考えると急に愛しさが湧いてきました。僕自身「義」とはかけ離れた人生を送っていると考えていたのですが、こうして文字を入力することで「義」を生み出していたんですね。義義義義ギギギギ…!
今、周易講座4期のテキストを作っているのですが、データが途中で消えたんですね。めったにないんですけど、Keynoteがエラーを起こして「ひと段落した作業」がなかったことになりました。消えた部分や時間を惜しい気はしますが、もしかすると消えた部分は不要だったのかもしれないと考えて、割り切ることにしました。蛇足だったのだと思います。テキストや講座の全体を構築する上で協調が取れない要素だったのかもしれません。
「義」には構造全体を優先するような働きがあるわけですが、この「構造全体」の範囲がどのことを指すのかを考える必要があります。会社や組織のために死ぬことが「義」という状態は、その人が見ている世界の全体はその会社や組織ということになります。「不要」だと判断されるような出来事があったとしても、それは「特定の場」での話ですし、会社のために死ぬことよりも家族や誰かのために生きることのほうが「大義」だったりするかもしれません。
自分の人生を構成する1つ1つの要素も「義」かもしれません。楽しい出来事も、悲しい出来事も「あなたの人生」を構成する上では必要不可欠な出来事なのかもしれません。そうです。テキストのデータが消えたことを「必要なことだった」と言い聞かせ、自分を慰めるためにこうしてブログを書いている浅ましさをどうかお許しください。しかし、この振る舞いこそ「にしけい」としての役割を全うすることになると考えております。
義にしけい