説明を端折りますが、「徳」を抽象化していくと、どうも「一次元空間的移動」のことを指しているようです。
なので、徳によって言葉は生まれるのですが、言葉になった時点で徳ではなくなっているんですね。徳はノンバーバルなコミュニケーションなので、人間以外にも発生し通じ合える、思ったより原始的な概念のようです。
徳は「言葉を発する」という行為自体には付随するのですが、言葉自体にはあまり意味がないようです。「頑張れ」「あなたは大丈夫」「Wish you the best!」といった文字情報や「意味」ではなく発話自体に徳が発生します。
場合によっては存在するだけで徳が発生する場合もあり、むしろそのほうが自然な徳なのではないかと考えられます。一次元空間上のやりとりなので、装飾されておらず、ありのままの状態でのやり取りです。素直と言いますか。
「徳を積む」という言葉がありますが、徳の一次元的性質を加味すると「保持・保存・蓄積」といったことは起きず、瞬間的なものだと思います。夏の生魚みたいなものなので、保存は効かず、むしろ過去の徳(行為)に対して執着すると、腐っていく一方なわけです。
徳を積もうとする行為が既に、徳とは程遠い行為で、それは「徳を積む」ではなく「恩を売る」という状態である場合も多いです。
ライブDVDを見続ければ、ライブに参加した気になれる没入感はあるのかもしれませんが、生のライブは違いますよね。あれと同じで徳は蓄積や保存が効かず、その瞬間瞬間に発生しては消えていく性質があります。徳は生物(なまもの)であり、生物(いきもの)です。蓄積されるものというよりも、毎回違った形で発生しては消えていきます。
なので、「徳とは何か?」という定義や議論すること自体がナンセンスというか、あまり意味がありません。この文章も意味がないぐらい、徳は言葉と相性が悪い性質をもっています。哲学者や宗教家が徳について議論するというのは、中高年のおじさんたちが集まって、若い女の子の間で流行っているものを定義・議論するようなもので、掴めているつもりで掴めていないというか、ズレたものになるはずです。
あんまり何も考えたり、意図せずに、自然体の自分を受け入れることがまずは大事なのかもしれません。
にしけい