自分が実家を離れたり、家族の一人が離れて暮らすようになっても、「放っておけない」という気持ちが働きます。僕も地元富山にいる両親に対してそれなりに心配する点がいくつかあり、相続や空き家問題などの観点からも「ただ放っておけばいい」というわけにはいかない状況です。
離れて暮らしていても「家族関係」は継続しますし、場合によっては支援が必要な場合もあります。家族関係というものは切りたくても切れないつながりですし、距離感・接し方の塩梅が難しいと感じられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
問題の指摘が問題を助長する
今月の27日に開講する「ボーエンによる家族システムと家系の話1」では、統合失調症の患者とその家族を観察し続けた精神科医マレー・ボーエンの著書をベースに家族や家系についてお話する予定です。
【家系の流れを科学的に】「ボーエンによる家族システムと家系の話1」
https://nishikei.jp/shop/familyevaluation-1/
同書の中には「家族の支援」や「家族との関わり方」についての観察とそこから導き出される理論が書かれていますが、その一部をご紹介します。
一人の家族成員がもう一人の家族成員の顕在的あるいは潜在的問題に気づき、不安をおぼえたり、心配することがある。この「不安を抱く人」が、問題であると認知した相手の様子や行動について不安を表明すると、「問題を持つ人は」「不安な人」が心配しているまさにその品行、態度、様子を典型的な方法で誇張する。この「問題の誇張」は、もちろん「不安な人」の不安を増大させる。不安と問題行動を強化するこのサイクルは繰り返され、「不安な人」は、自ら望む以上に世話をする立場を取り、「問題を持つ人」は、自ら望む以上に患者や子供の立場(世話を焼かれる立場)を取る結果となる。
一言で言うと、「問題視することでその問題が解決するのではなく、より助長する傾向がある」ということです。これを読んで僕も父のことが思い当たりました。まわりが手を焼いて、気にかけて、心配すればするほど、解決には向かわずに問題が助長されていたのです。あたかも「問題を起こす役割」を与えられたかのように、その問題とされる行動が強くなっていったのです。
人間は特定の組織や集団の中で、その組織や集団の中で欠けている役割を担い、無意識のうちにその役割を演じ続けるという特性があります。社会学者アーヴィング・ゴフマンが『行為と演技:日常生活における自己呈示』で論じた「ドラマツルギー(ドラマトゥルギー)」も同じことを述べています。独立した「個」というものはどこにも存在せず、状況に応じて期待される役割を演じているにすぎない…という考え方です。
積極的に見えても、それは対応的な振る舞いだったり、「個」として独立しているように見えても、世間や周囲からの外圧からそうせざるをえなかったり。それが「家族」という狭くて関係性の深い範囲だとより強固に顕れてくるのかもしれません。
ラベリングすることによる効率化
この特定の演じてしまう作用は、集団内での関係性を固定することで効率化を図る作用があるようで、僕たちが無意識のうちに行っている「ラベリング」もこれに該当します。
家庭内だと、例えば「問題を起こす子」「心配性の母親」「無関心な父親」「優等生の兄」といった役割分担が無意識に行われることがあります。ラベリングすることで、その集団内での役割や関係性が固定され、そのあとの振る舞いや方針が自然と決まってくるわけです。
ラベリングは「この家庭内の不和はあの人のせい」という風に、特定の人物へ責任を転嫁させる作用もあります。誰か一人のせいにすることで、それ以上考える必要がないので、楽なんですね。そのラベリングを強めるためにも、「問題を起こす子」は「問題を起こす子」であって欲しいわけです。バイアスがかかってしまうので、何をやっても「問題行動だ」となりやすく、問題行動だと認識される行動のみをピックアップされやすくなってしまいます。
世代や組織を超えて起きるラベリング
例えば、九州のほうに行くと今も「女は男の一歩後ろを下がって歩け」というような風習が残っている地域があります。これはその土地に残り続ける一種のラベリングで、世代や時代が違っても「夫は◯◯だ」「妻は◯◯だ」という強烈なイメージの固定が継続しています。
また、「自分は◯◯だ」という風に強烈にラベリングすると、所属する会社や組織が変わっても周囲に同じように振る舞われてしまう場合もあります。「自分はダメな人間だ」と決めていると、周囲の人たちはその人を見下すように振る舞う可能性が高く、問題が起きると「あいつのせいだ」と決めつけてしまうわけです。ある意味それはそれで、自分の固定されたイメージを貫いている状態(頑固)なので、すごいことなのですが、あまりも固定されると偏りが大きくなっていき、持続しないことが多くなります。
この自然と発生する「役割」や「ラベリング」は、アリが巣を守るために「女王アリ」「働きアリ」「予備隊のアリ(サボりアリ)」を本能的に分けているように、人間も本能的にやっているのではないかとボーエンは述べていて、家系や先祖の流れを見ていくと個々の振る舞いや選択も「全体の中の特定の役割を担っているにすぎないのかもしれない」という感じざるをえないことがよくあります。
家系やお墓は一種の生態システム
僕自身、墓相や家系について観察・研究を始めたころは、まだまだスピリチュアルっぽい雰囲気が漂っていました。それは僕自身よくわかっていなかったからだと思います。でも、実際に家系図を見させていただいたり、現象を観察させていただく中で、「これってそうなるようになっているよな」という「システム(仕組み)」のようなものが見えてきました。
なので、講座「ボーエンによる家族システムと家系の話1」では、家系やお墓はスピスピして怪しいものではなく、どちらかというと生物学や生態学の一部なのでは…?という視点からお話する予定です。家族だけではなく、友人・恋人・同僚・上司と部下…といった様々な人間関係に応用できると思います。
にしけい