イタリア・フランス・スペイン・ペルーを旅したなかで、教会やキリスト教に関する施設を何ヶ所も見てきました。
宗派や国によって捉え方や表現の仕方が違うのか、同じイエスキリストや聖母マリアを表現した絵画や造形物にも差異が感じられました。
正直に話すと、僕はキリスト教についてよく分かっていません。
そんな僕でもキリストの絵画や造形物から何かしら感じるものがありるのです。
それは、悲壮感だったり、力強さだったり、慈悲深さだったり、偉大さだったり…
本当に同じ対象を描いているのか…というぐらいデフォルメされています。神に対する作者らの考えや思いが異なるからでしょう。
スペインでもいろいろなことを考えながら作品を眺めていたのですが、ここで1つの疑問が頭頂部にコツンと落ちてきます。
キリストを知らない世界の人たち
現代を生きる僕は絵に描かれている人物が「イエスキリスト」だと知っています。
しかし、その存在を知らない人たちがこの絵画や造形物を見たらどんな気持ちになるのでしょうか。
例えば、地球上の文明が一度滅んで1000年後の人類が地を開拓掘り起こしているときに世界各地でキリストの絵や彫刻が発見されたとします。
語り継ぐ人が途絶えてしまったため、未来を生きる新文明人たちはキリストの存在を知りません。
それでも世界のあちこちで、キリストが十字架に吊り下げられている絵や彫刻が出土します…。
未来人A「このヒゲが生えている人、なんでいつも吊るされているのだろう」
未来人B「この人物はなぜここまで絵や彫刻が見つかるのだろう、何か悪いことでもしたのだろうか」
きっと何も知らない未来人たちはこのように思うはずです。
現生の人類にとっては、崇拝の対象となりうるキリストですが、未来人にとっては罪人扱いになるかもしれません。
自分が死ぬ直前の姿や吊るされている姿を描いたものが世界中に点在することをキリスト本人が知ったらどう思うでしょうか。
これを読んでいるあなたはどうですか?自分が死にゆく姿が死後2000年以上も残るってどんな気持ちがしますか?
もう死んでしまっているのでそんなことはどうでもいいのかもしれませんが、自分はできれば笑って楽しそうにしている自分の姿を後世に残したいと思います。
そう考えるとキリストは凄いです。あそこまで自分の死に際…時には臓器までさらけ出せるというのは、相当なメンタルをもっていないと出来ないことです。
InstagramやFacebookに「死にそうなう」なんてコメントと共に自分の写真をアップするようなものですから、ちょっと普通じゃ出来ないことです。「いいね!」も付けづらいでしょうね。
キリストの死に際の様子のシェア・公開されまくりっぷりを見ていると現代人がやっている「公開」「シェア」は可愛いもののように思えてきました。
つまり、もっと自分をさらけ出してどんどん「評価」されても良いのではないかと思えてきたのです。
もちろん誹謗中傷もあると思います。しかし、キリストの絵画や彫刻を眺めていると不思議と「まだまだいけるな」と妙な勇気がもらえたのです。
何度も言いますが、僕はキリスト教についてよく分かっていませんし、卑下したり、否定するつもりは毛頭ありません。
ただ「死ぬ間際の様子という本来であればあまり見せたくない姿が世界中で造形物になっている」ことって冷静に考えると異常だし凄いことだなぁと思ったのです。
というわけで、僕もキリストに勇気をもらったので公開しようと思います。
にしけい