最近、本を読んだり、ヒトと会話する中で気づいたことを記していきます。
1.自分が使わないものを否定する必要はない
例えば
「グミを食べると痩せる」と信じている人に対して
「グミに脂肪を燃焼させる科学的根拠はない、グミダイエットは迷信だ!」と否定することは、グミダイエットを支持する者と同じぐらい滑稽だと言える。
それは、あなたが右足から靴を履いたり、知り合いと街で目があったときに軽く会釈する行為を否定することと同義である。
それを行う本人の中に「納得」があり、それが本人の幸福につながるのであれば、それを強く否定することはいささかナンセンスである。
「幸福」にたどり着くのであれば、どんな乗り物に乗ろうが、歩いて行こうが、その人たちの勝手ではなかろうか。
という、この主張自体もナンセンスなんだけども。
2.リンゴをどうしようが、その人の勝手
「リンゴが欲しいです!」
「はい、じゃあこれ、リンゴ。どうぞ」
「ありがとうございます!」
この時点で、リンゴを与えた人の役目は終わり。
それ以上はエゴになる。
「リンゴは、皮をむかずに食べた方が1番栄養を摂取できるから、そのまま食べた方がいいよ」
「あ、そうなんですか。私は頂いたリンゴを使って、部屋の壁に空いた穴をふさごうと思ってね。ちょうどよかったんですよ、この大きさが」
「え、リンゴは食べものですよ…?」
違うんです。
リンゴをどう使うかは、もらった人次第なんです。
あげた人がとやかく言っても、リンゴをどう使うかはもらった人次第なんです。
あげた人が想定している使い方、捉え方を押し付けるのは、これはエゴなんです。
もしかしたら、リンゴをもらっただけでハッピーになれる人もいるかもしれない。もっというと、リンゴをもらうまでのあなたとのやりとりを楽しみにきている人もいるかもしれない。
そう考えると、「与える」側って意外とちょっぴり無責任というか、放任の方がいいのかもしれない。
リンゴの食べ方まで教えちゃうと、それしか思い浮かばなくなっちゃうかもしれないから、リンゴの無限の可能性もなくなっちゃうかもしれないから。
パッと手放す。そして、サッと去る。
3-1.群盲象を評す
僕たちが見えているものは、ほんのわずかで。
目をつぶって歩いているようなものだと思うんです。
手探りで恐る恐る歩いて、やっと何かに触る。あっ、これは岩壁かな。
なるほど、僕は洞窟の中を歩いていたのか…
しかし、果たしてそれは本当に洞窟なのか?それは本当に安心だと判断する材料になるのか?
それは本当に「はっはっは!ここは洞窟だから安全だぞ!」と誇れる要因になるのか。
僕たちが見えているものは、本当に極々わずかで。知らないこと、わからないことだらけで。
自分がどこにいるのか、どこへ向かっているのかすらわからない。でも、それを知ろうと、わかろうとすることをやめたらそこで立ちどまってしまうことになる。
3-2 高野山伝燈大阿闍梨 山崎泰廣猊下の行動
過去の日記でも触れたかもしれない。
2年前の冬に高野山伝燈大阿闍梨 山崎泰廣猊下の御宅にお邪魔させて頂いたとき。
僕が「手相占いを勉強しています」と話すと
猊下は、スッと紙とペンと用意して「私に手相を教えて欲しい」とおっしゃった。
今思い出しただけでも胸が熱くなる。この行動。
猊下は仏教だけではなく、政治や環境学など本当に幅広く深い知識をおもちである。
日本中に数多くの御弟子さんがいらっしゃって、猊下を頼って御宅を訪れる方もたくさんいらっしゃるという。
そんな方がこの青二才に「手相について教えて欲しい」とおっしゃられる。
僕は猊下の文字通り底知れない探究心と謙虚さに、大きく感動した。そして、自分が恥ずかしくなった。
死ぬまでに知れること、考えられることは限られている。ほんのわずかかもしれない。
でも、死ぬまで知り続けたいし、考え続けたい。
旅の恥は掻き捨て。
人生もある意味、旅だ。場所が変わらないだけで、景色も心境も常に変化する。
恥ずかしがる方が恥ずかしい。
1日1個でもいい。何か新しいことを知ろう。
1文字でもいい。本を読もう。
オチはいらない。
このリンゴ(記事)を受け取って、どうするかはあなた次第だから。
にしけい