私たちは日常的におみくじを引いたり、占いをしたりします。そこでは大吉・中吉・凶といった判断が示されます。占いの世界では、このように物事を吉凶で決めることが当たり前になっています。
しかし、僕はこの吉凶を決めることに対して占いを始めたころから大きな疑問がありました。物事の吉凶を判断するためには、対象となる人物の特定の側面だけを切り取り、固定的な基準で評価する必要があるからです。このように部分を全体として捉えてしまうと、そこで思考が停止してしまう可能性があります。
部分的な評価が全体評価になってしまう例
例えば、「Aさんの服装はダサい」という風に感じたとします。
これはAさんという人の「服装」という部分を切り取って、自分の中にある服装に関するセンスという軸をもってAさんを断じているわけです。
「自分は何もかも中途半端でダメだ」という風に感じた場合も同じです。
「何もかも」と範囲が広がっているように見えますが、実際には自分の特定の側面を切り取り、何らかの理想像と比較して、「中途半端」「劣っている」と判断しているケースがほとんどです。
確かに、「全てがダメだ」と決めつけてしまえば、それ以上考える必要がなくなり楽かもしれません。しかし、そこからは建設的な展開が生まれる可能性が失われてしまいます。
子供のケンカに見る「部分」と「全体」
うちの子もケンカをすると、「もうAちゃん嫌い!もう絶対遊ばない!口きかない!」と言ったりします。
これも、「特定の部分」(今遊んでいて気に食わないことがあった)を自分のモノサシで「不快だ」とジャッジして、その発生源であるAちゃん全体を否定し、さらに「これから起きるAちゃんとの関係性全て」という広い範囲を拒絶しています。
しかし、本当に不快だと感じたのは「特定の瞬間に起きた特定の出来事」のみであり、Aちゃん全体が嫌いなわけではありませんし、Aちゃんと共有する時間全て(過去・未来)という広い範囲が「悪い」という風に決めつけることにはならないのです。
実は大人になっても、これと同じようなことをやっている人がたくさんいます。年齢は関係ないのかもしれません。
何か不快な出来事があったときに、「特定の部分」のみに対して不快感を感じているにも関わらず、その範囲が拡大したり、存在そのものを全て否定したりするようになるわけです。
「その人そのものが全部悪い」とか「自分そのものが全部悪い」という風にジャッジするのは、「部分が全部」になっているときに起きます。
「Aちゃんはおもちゃを貸してくれないから、きらーい!もう絶対あそばなーい!」というのと同じなのです。何度も言いますが、これは思考停止につながるので非常に楽なのですが、楽になる分、癖になるとこの固定されたイメージが強くなっていきます。
楽になる分、選択肢が減っていく
「Aちゃんが全部悪い」という風に固定したイメージを持ち続けることで、Aちゃんとの関係性を修復したり、無駄にストレスを抱える必要がなくなるので、非常に楽になります。
さらに「Aちゃんと関わらない理由」や「Aちゃんと関わると損をするイメージ」を探し求めるようになると、より一層「Aちゃんと関わらない自分=正しい」という固定観念が強くなっていきます。
このような「部分が全部になる」という思考の癖があると、意味もなく人を傷つけますし、その矛先が自分に向かうと、自分で自分を傷つけることになります。
「私は全部だめだ」「私の人生は全部だめだ」という思考もそうですが、反対に「私の行動は全部正しい」「私の人生は全てハッピーだ」という思考も同じです。
部分が全部になると、短絡的で極端になります。何度も言いますが、そのほうが圧倒的に楽です。自分や他人を責めるだけで、それ以上何も考えなくていいからです。
極端な思考がもたらす代償
部分を全体として捉えると、思考は短絡的で極端になりがちです。確かに、自分や他人を一方的に責めるだけで済むため、表面的かつ一時的には楽に感じられます。
しかし、この思考パターンには大きなデメリットがあります:
・選択肢や可能性が狭まる
・建設的な対話が困難になる
・人や自分を傷つける可能性がある
「吉凶を判断することに対する疑問」に対して、うまく言語化できなかったのですが、ようやく最近になり「部分が全部になるおそれがあるから」という明確な回答が見えてきました。
誰か(何か)を悪者にすることのその場しのぎ感
僕が墓相や家系などを探究するようになった背景には、「誰かを悪者として断じていいのだろうか?」という疑問があったからだと思います。
特定の現象が起きたときに、誰か特定の人物を「諸悪の根源」という風に断じて、切り捨てるのは簡単です。しかし、それはあくまで「処置」に過ぎません。一時的には解決したように見えるかもしれませんが、また同じようなことを繰り返す可能性がありますし、繰り返すことが多いです。
特定の現象が起きたときに、必ずそこには背景があります。
・恋人がいないことを気にしてしまう
・夫婦関係の悪化
・仕事で評価されない
・自分を大事にできず安売りしてしまう
・特定の人物に固執する
・病気や怪我
…ありとあらゆる現象には「背景」があって、そうなる「仕組み」があります。
家系の流れもその背景を知るひとつの手がかりですし、ご相談でじっくりお話を聞いていると「そうなってしまう背景」のようなものが見えてきます。
まずはゴミ袋に入れたものを見直す
人間は生まれてから死ぬまで、環境からの影響を受け続ける存在です。生まれた場所、持って生まれた素質、それらすべてに適応しながら生きています。
誰かを責めたり、自分を責めたりするのも、困難な状況に対する一つの適応方法かもしれません。しかし、その悪循環の一部分を変えるだけで、状況は大きく改善する可能性があります。
僕はこれまで自然と「場(環境)を変えることへのアプローチ」をやっていたことに気づいたのですが、これも「誰か(何か)を悪者にすること」への疑問からかもしれません。
私たちは往々にして、不快な感情や経験を大きなゴミ袋に詰め込んでしまいがちです。「全部イヤ」「全部ダメ」と一括りにして、そのゴミ袋を遠ざけることで一時的な安心を得ようとします。
しかし、本当の解決のためには、そのゴミ袋の中身をいったん広げて見直してみる必要があります。
・どの出来事に強く反応したのか?
・なぜその部分が特に気になったのか?
・本当に「全て」が問題だったのか?
ゴミ袋に詰め込まれた感情や経験を、一つひとつ丁寧に振り分けていく作業が、変化の第一歩となります。
感情のままに全てを大きなゴミ袋に放り込んでしまうのではなく、その中から「自分が反応してしまった部分」を見つけ出し、整理していく。そこから、新しい可能性が見えてくるのかもしれません。
部分に着目するのではなく、全体を見ていくからこそ、「自分の考えが完璧で正しい」だなんて口が裂けても言えません。だけど、これに気づけたらまた次の新しい可能性が見えてきました。まだまだ実験と検証の日々が続きます。
にしけい