社会学者のピエール・ブルデューは、人間が長年身につけてきた思考の枠組みを「ハビトゥス」と呼びました。
常識・体系・知識・理論・システム・信仰。
これらは「枠組み」を指します。
僕は「占い」という「枠組み」を学んで、実践してきました。その結果、枠組みが大きく崩壊しました。「ほどほど」で止めておけばよかったものを、3日間なにも食べずにいた子どもがポテトチップスの袋を渡されたときのように貪り、その手は止まりませんでした。
「ほどほど」でとめておけばよかったのです。しかし、やりすぎてしまいました。
その結果「枠組み」が壊れました。時間・労力・お金・情熱を注いで「枠組み」を構築して、その結果、枠組みが壊れたのです。壊すために組み立てたのか。今までやってきたことは何だったのか。非常に大きな絶望がありました。
心理学には「認知的不協和」という言葉があります。人間は自分の信じていることと現実が矛盾した際、不快感を解消するために「信じ続けるための言い訳」を探します。しかし、裏切りや失敗などが度重なり、言い訳(正当化)が維持できないほど大きな矛盾(不協和)に達したとき、信仰(枠組み)は崩壊します。
僕にとっての占いは、もはや「言い訳」が効かない段階に到達して、限界まで膨らんだ不協和に耐えきれず、内側から爆発してしまったのです。
「枠組み」を失うということは、一種の燃え尽き症候群のような状態です。「役割」「自我」のようなものを喪失したわけです。追いかければ追いかけるほど、追いつめられるような状態です。
そこから自分に「かりそめの役割」、具体的には「占いをエンターテイメントとして消化(昇華)する」「コミュニケーションのツールとして用いる」「割り切ってやっていく」といったものを与えようとしたこともありました。
しかし、これらは一種の誤魔化しであり、既に多くの人々がこの誤魔化す道を選んでいます。「ちょっと占いに詳しい人」という立ち位置で、何かあれば「エンタメだから」「趣味だから」「コールドリーディングだから」「思い込みだから」と、割り切る方法です。吐き気がしました。めまいがしました。
大きな「枠組み」が壊れて、何もなくなった自分。その自分が逃避するために、三匹の子豚のように「とりあえず木で家でも建てて住むか」みたいな感じで、そこに逃げ込む。逃げ込んだ小屋には、誤魔化して脳死した豚たちがいっぱいいました。
「大人の事情だよ」
「自分も若い頃はそうだった」
「早く割り切って楽になったほうがいいよ」
哲学者のフリードリヒ・ニーチェは、既存の価値観(枠組み)が崩壊したあとに、自ら新しい価値を創造する者を「超人」と呼んだそうです。小屋の中には「超人ぶっている人」しかいないように見えました。「ここも自分の居場所じゃない」と、また外に出ました。
こういうときに、「師」となる人物がいたらいいなと素直に思いました。「枠組み」を提示してくれる人です。しかし、そんな人は現れませんでした。なぜなら、僕が師と仰ぎたくなるような人物は、枠組みを提示する人物ではなく、「新たな可能性」を見せてくれる人物だからです。
「こんな可能性もある、こんなことも出来る」と、遊び心のあるお茶目な魔法使いの老人のような人です。枠組みの外に放り出され、宇宙空間のような場所に放り出された僕はそんなファンタジーに耽るほど苦しかったのだと思います。
僕にとってのファンタジー(夢)はなぜか老師なんです。なので、苦しくなるとバーチャル老師を作ろうとする習性があるようで、過去にこういったものを作っていたのは、そういうことだったのだと思います。
そんな老師のような「自由で可能性を見せてくれる存在」が出てこないということは、「もうしばらく枠組みの外でもがき続けろ」ということだったのだと思います。「占い=自分」という枠組みが強く構築されていたこともあったのだと思います。それが壊れてしまうと、自分には何も残らない・何のために存在しているのか分からなくなりました。
子育てを終えた女性が空の巣症候群に陥ったり、会社を定年退職した男性が役職や役割を失い鬱病に陥ったりする状態に似ているのかもしれません。ここにホルモンバランスの変化や更年期などの症状が重なっていなかっただけ、まだ救いがあったかもしれません。
アイデンティティだけではなく、社会的な役割・生物としての役割…こういった枠組みが一気に消え去ってしまうことを想像すると、ゾッとします。僕はまだ軽く済んだほうなのかもしれません。彼らが「次の枠組み」を求めて「使命(生まれてきた意味)」や「任務(ミッション)」のようなものを探し求める気持ちを理解できたような気がします。
しかし、それらは簡単には見つかりませんし、先述したように簡単に見つかったそれっぽいものを「枠組み」として生きれるほど器用ではありませんでした。
結局、僕は自分がどこまでも高潔で素直であろうとするという枠組みが捨てられなかったのだと思いますし、今も捨てられていないと思います。
枠組みがなくなったあとに残ったもの
社会学者のHelen Rose Fuchs Ebaughという人が「Becoming an Ex: The Process of Role Exit(役職からの脱却:役割からの脱却プロセス)」という本の中で、下記のようなプロセスを述べています。
枠組み(信仰・役割)の離脱過程モデル
1.最初の疑念:小さな違和感
2.代替案の模索:他の価値観やコミュニティ(居場所)を検討する
3.転換点(ターニングポイント):裏切りや事件
4.新しいアイデンティティの形成:「信じていた自分」を過去のものとする
僕もそうでしたが、「信じているもの=自分の一部(もしくは全部)」になっていた場合、1の違和感があっても、なかなか枠から抜け出すことができません。
「枠組みを捨てる=自分自身を殺すこと」に等しく、大きな恐怖を伴うため、正当な言い訳や居場所を探そうとします。それが見つかると、2に移行するわけですが、1と2を行ったり来たりしている人たちもたくさんいますし、そのほうが圧倒的に楽だと思います。
結局のところ、何かに依存したり、どこかに所属していたり、居場所(枠組み)がないと、人間はやっていけないようにできているようで、これを書いている僕も「落とし所」「新しい居場所」のようなものが見つかっているから、こうして文章化できているわけですが…
占いにおける、常識・体系・知識・理論・システム・信仰といった枠組みを捨てて、妥協やそれっぽい逃げ道も捨てて、僕が戻ってきたのはやっぱり「占いの場」でした。「おいおい、これだけ読ませておいて、最終的に何も変わってないのかよ」とつっこみたくなるかもしれません。
しかし、全ておかしいと疑って捨てた結果、単純に「そのままを見る」という「直観」のようなものを使うようになりました。この場合、直観でもいいし、直感でもいいです。池の水に石を投げて出来る波紋のように、そのまま出来上がってくるものを重視するというか。言語化すると、怪しく聞こえるかもしれないのですが、何も持たない丸腰の状態で「今」を見るというか。そこに次に進むための手がかりがあるのではないかと考えているのです。もしかすると、そこに「新たな可能性の種」があるかもしれない。
その小さな種が今の僕を動かすきっかけになっていて、それに気づくことができたのもやっぱり「占いの場」だったんですね。でも、今までとやっていることが全然違うんですね。
まだ、もがいている、模索している最中ではあるのですが、何か今までと違った感覚があるんです。それが正しい道なのかはわかりません。もしかしたら、また何も無いかもしれません。しかし、「新たな可能性を模索していること」自体がもしかすると「自分」という枠組みなのかもしれません。
お茶目な魔法使いの老人(老師)に一歩でも近づけることを願って。
にしけい




