オーストラリア5 街と間

メルボルンはケアンズに比べると少し肌寒いけど、なんとなく穏やかな天気。タンクトップで歩く人もいれば、分厚いダウンを着て寒そうにしている人もいる。日本でも春や秋は衣類の防寒度の違いがあるけれど、もっと違いがある。

オーストラリアは街の中でも裸足で歩く人がいるという噂を聞いていたけれど、裸足で歩いている人を見かけたのは1人ぐらいだった。

 

 

メルボルンの中央街を裸足でキックボードに乗っている長髪のお兄さんがいて、街ゆく人たちが冷ややかな目で見ていた。でも、何かこうそういう人もいるよなという感じの空気もあって、受け入れていないわけではなさそうだった。

日本でも都市部にroopという電動キックボードが普及してきているけれど、メルボルンではヘルメットもセットになっていて、かぶっている人もちょくちょく見受けられたのは安全面への配慮としてはいいなと思った。

日本の都市部でも自動車、自転車、キックボード、歩行者、セニアカーとかがごった返していて怖い場所もあるし、ときどきぶつかられそうになるし、ぶつかることもある。最近はヘッドフォンをして、スマホを操作しながら歩いている人も多くて、街を歩くだけでインベーダーゲームみたいに回避しながら進まなきゃいけないものが多すぎる。

こんなことを書いているということは、僕は人と人のあいだにある「間(ま)」とか「空間」みたいなものに興味があるのかもしれない。程よい距離感とは何なのか。ぶつかりたくてしょうがない人もいる。結合したくてしょうがない不安定な分子みたいに、わざわざ間を詰めようとする人もいるし、お互いに惹かれ合うこともある。

急激に、早急に距離を詰めようとしてくる人には注意が必要で、早さよりもその「不自然さ」に注意を払ったほうがいい場合が多い。

これは仕事でもプライベートでも言えると思う。もちろんきっかけがあって意気投合することもあるけれど、そこには「心地よい程よさ」「均一さ」みたいなものがある。断続的に連絡があっても、そこに下心みたいなものがないというか。

僕がやっている仕事は、やろうと思えば簡単に人を依存させることができる。占いのお店だと「リピート率」を重視するらしいけれど、人を依存させる場合は依存させる側にもする側にも下心みたいなものがある場合が多い。

「にしけいくん、宗教作らないの?知り合いで宗教の作り方に詳しい人がいて」と紹介を受けることもある。確かに、宗教を「作ってみたい」という気持ちはあるけれど、それは新しいポケモンがいたら対戦で使ってみたいみたいな気持ちに近い。新しいゴルフクラブを試打してみたい。新商品のペンを試し書きしてみたい。そういう感覚に近いと思う。

人は何かに依存しなければ暮らしていけないけれど、依存先が固定したり、一箇所に集中することが破綻に向かうのかもしれない。必要に応じて助け合いながら、過剰に干渉しない。遊動しながら暮らしていた時代は、その場その場で必要なものを採集して、離れることができた。依存先が固定されておらず、分散していた。

現代人の多くが、特定の場・人・組織に固定される。固定されると、集中する。偏りが大きくなる。自分自身の中にある、固定や局所性みたいなものに、辟易としていたから旅に出たくなったのかもしれない。飛び出したくなったのかもしれない。

 

 

メルボルンは小雨と晴れ間を繰り返す。知らない街を1人で歩く。特定の何かに固定されていたことに気が付く。日本を離れることで、今までの自分を離れるような感覚になれる。

旅は続く

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書いている

西田 圭一郎

1987年富山市生まれ。工学修士。
商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。黒も好きです。どの国に行ってもスチューデント扱いされます。

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