[逆説の日本史]怨霊信仰についての考察

 

廊景谷シイチです、ごきげんよう。

最近、井沢元彦氏の『逆説の日本史』シリーズに夢中になっている。

1巻は1997年に出版されており『何をイマサラ…』とお考えの方もいらっしゃるかもしれない。

ただ、本というものは不思議なもので、出逢う本と出逢わない本がある。

さらに言及すると、出逢ってもそこまで面白いなと思わないものもあれば、本棚を整理していてパラパラと読み返した拍子にはじめてその面白さに気づく場合もある。

これは、人との出逢いと同じで、ありきたりな言葉で言うと『タイミング』なのである。

 

『逆説の日本史』に関して話すと

 

いわば、昔から多くの人々に知られている名女優の良さにはじめて気づき、年上の女性の魅力に気付いてしまった少年のような心境に近いかもしれない。

古びた居酒屋のトイレに貼られているビールのポスターの中で爽やかに笑う水着の女性に心打たれるような。そんな心境。

「おそらくこの水着の女性は今50歳ぐらいなんだろうなア…」と酔っ払い半分イチモツを片手に物思いふける。

発信された時期が古かろうが新しかろうが、自分が情報を受信したタイミングが最近であれば、それは「新しい情報」だと言える。

縄文時代に発信されていた私たちが知らなかった情報を、現代を生きる私たちが今受信したとしたらそれは最新情報だし、”新”事実となりうる。

 

『逆説の日本史』は私にとってフレッシュな存在であり、出版された当初に読まれた方も時期外れの読書感想文に今一度お付き合い願いたい。

 

怨念と天人相関説について

 

とても興味深い記述は、怨念というものが今よりも深く強く広く日本人の心を支配していたという論旨だ。

怨念が発生する背景として「日本人には肉体=個人の所有物」という考え方が強くあり、肉体に危害が加えられるとその所有者の反感・怨みを買う。

これは当たり前のように思えて実はそうではなくて、井沢氏は比較のためにキリスト教を例示している。

キリスト教は「肉体=神が創ったもの」であり、創造主である神から「廊景谷の肉体は滅びてしまってもいい!」というお告げがあれば、私を殺害しようが怨みなど発生することはないという考えである。

神からのお告げが本当に存在するかどうかはともかく『(都合のいい)理由』というものは強力に行動を後押しする。自分の行動原理について「正しいかどうか」をウンウンと悩む必要はないのだから、楽である。

逆に行動する前・したあとに「どうしても割り切れないこと」が出てきたから、何か大きな力に身を委ねてそのせいにしてしまいたかったのかもしれない。

これだけ科学が発達した現代社会でも神仏・呪い・占いが存在するのは「どうしようもない状況」でも生き抜くための知恵なのかもしれない。

同書中に出てくる「天人相関説」とは、不作・飢饉・疫病・罹災などがあると、それはそのときの最高権力者の「徳がなかった」ことが原因とする考えである。

今でいう「不徳の致すところです」と謝罪会見でも開ければまだしも、有無を言わさず殺され、次のトップを立てれば運気(?)が変わるという風潮があった。殺された方としてはたまったものではないが、1人の命で多くの人々の気が晴れたのである。

とにかく人のせいにでもしないと、やっていけないぐらい過酷な時代だったのかもしれない。

 

なぜ怨霊信仰は未だに存在するのか?

なぜ紀元前1000年から中国や日本に「怨霊信仰」が存在しているか?

そして、なぜそれは現代にも残っているのか?

死んだ人が生前の恨みを晴らそうと、怨霊となって牙をむく。

それを鎮めるために、アアデモナイコウデモナイと儀式をしたり墓を建てる。

そんな怨霊信仰の根拠となる出来事や事実があったと、私は考える。火のないところに煙はたたずである。

これだけ煙が蔓延して残っているのだから「人間が楽に生きるために生み出したフィクション」以外の理由、つまり火種があるはずだ。

そもそも怨霊は実際に存在するか

 

私はスピリチュアルなことに関して疎いなりにも、いくらか見聞きした中で「霊は存在するか」という問いについて考察してみようと思う。

過去に「前世を記憶する子どもたち」という本を紹介した記事を書いている。

この本は「生まれ変わり」に関するデータを集め、統計学的かつ科学的に「生まれ変わりは存在するか」証明を試みた報告書である。

「テレパシー」「虫の知らせ」の事案から、生まれ変わった後の子どもたちの証言などから著者が掴んだ情報の中にこんなものがあった。

 

前世を記憶していた子どもたちの61%が前世で非業の死を遂げている。

 

著者は「非業の死」について下記の3つを挙げている。

・身体的損傷や苦痛が大きい死

・若年での死

・未完成の仕事、継続中の仕事があったかどうか

「逆説の-」では、政略的に暗殺されたとか、権力や地位を逃したり奪われたり…そんな人たちが「怨霊になる」条件とされているが、上記の「非業の死」の条件とおおかた一致するのではないだろうか。

つまり、非業の死を遂げた魂(情報を記憶した存在)が生まれ変わり、自分の死や前世の記憶について発言し、その事実確認が得られれば…非業の死をさせた加害者側はどのように考えるだろうか。

仮に、あなたがもし誰かを殺してしまったとして。その殺した相手が別の姿に生まれ変わり「あなた、前世で私を殺しましたよね」と肩を掴んで、殺害現場について事細かに説明してきたとしたら…ホラー映画さながらのパニックを起こすかもしれない。

現代ですら、「霊」や「生まれ変わり」は科学的に証明されていないのである。今よりも科学も数学も発達していない時代に、こんなことが起きようものならば「怨霊信仰」が生まれても不思議ではない。

もちろん全ての人が「怨霊」になったとは言い難いが、ごくわずかな「生まれ変わり」の事案でも十分火種にはなる。

「前世を記憶する-」では地縛霊のように、ある一定の場所にとどまり続けて、時期がきたら転生したという事案もあった。

転生するまでのあいだ、どのような状態でそこに存在していたのか。

側頭葉(こめかみの後ろあたり)を磁気で刺激すると、40%ほどの人が何らかの知覚体験をするといった実験結果もあり

素人の安直な予想だが、目には見えない「電磁波」のような存在として留まっていたのではないかもしれない。そう考えると、幽霊や怨霊というものは存在するのかもしれない。

最終的に私は怨霊信仰の信者であるという告白をする形になってしまったが…

何よりも、学校の授業では感じられなかった「歴史のロマン」を与えてくれる「逆説の日本史」の篤信者であることは言うまでもないだろう。

シイチ

 

 

にしけい (西田圭一郎)

1987年富山生。工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。三児の父。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。学生気分が抜けません。詳細はこちらから

にしけい (西田圭一郎)

1987年富山生。工学修士。商社の開発営業職を辞めて、占いや相術を生業にしています。三児の父。本と旅とポケモンと文章を書くことが好きです。学生気分が抜けません。詳細はこちらから

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