例えば。
幽霊やオーラやUFOやエイリアンの存在を「ない!」と言い切って思い込んでしまった瞬間
その存在の手がかりとなるヒントが転がっていても、情報として取り込まない可能性が高い。
「人間の顔がひとりひとり違う可能性がある」と考えるから、顔の特徴が分かる。
しかし「水族館に泳ぐマグロの顔が1匹1匹ちがう」という認識をもって、魚群を眺めていないと、おそらくその区別は一生かかってもつかないだろう。
何か新しい閃きや発見をするとき、すでにその存在を肯定している場合が多い。
AとBに相関があるのではないか…?という肯定的な観点からその相関が見つかる。
もちろん否定して、除外してしまった方が圧倒的に楽だ。
脳が働かずに済むから、エネルギーが温存できる。圧倒的に楽チンだ。ハハハ。
しかし、考えることをやめてしまった時点で、あなたは道端に落ちている石ころと同然。いや、口にしないだけで、石ころにも心があるかもしれない。
いかなる可能性も否定することは、新発見への道しるべを自らの手で破壊していることになる。
すなわち、それは「自分の可能性」をあきらめることにつながる。
google検索でさえ「もしかして…」と可能性を模索できる。
我々ニンゲンが「もしかして…」を言えなくなったとき、それはサヨナラの合図。
「ない」と思っているから、ない。見えない。聞こえない。感じられない。思いつかない。
「ある」と思っていたら、それは、ある。
この記事にも終わりが「ある」
サヨウナラ。
廊景谷シイチ