動いたら死んでしまうような状況に陥っていないのであれば動くしかない

「ミッキー、ミッキー、おいで〜、こっちだよ〜」

ミッキーは真由香が4歳のときに、高田家にやってきた白い毛が特徴の中型犬。雑種なので、耳の部分だけ黒いことから真由香の父が「ミッキー」と勝手に名付けた。真由香や真由香の母たちは最初は反対していたものの、今ではすっかり高田家に「ミッキー」は定着してしまった。

「ミッキー!おーーーい!こっちだよーーーーー」

茅ヶ崎の海岸線は高田家にとっては定番の散歩コースだった。この日は真由香の散歩当番だった。ミッキーはいつも健康的なピンク色の舌を出しながら、無邪気に走り回るのだった。が、この日は様子がおかしかった。

「ミッキー?どうしたの?」

いつもなら、真由香のよびかけに剛腕ピッチャーが投げる球のように駆け寄ってくるのだが、彼の白い体は地面から離れようとしなかった。地面を離れないミッキーだったが、彼は動いていないわけではいなかった。小刻みに震え、唸り声をあげていたのだ。ミッキーは目を閉じるどころか、目を見開いていた。

不審に思った真由香はウェッジソールサンダルで転ばないように、それでも可能な限り足早に愛犬のもとへと近づいていった。右耳に入る粘着質な波の音。潮風とうっすらとかいた汗と日焼け止めが額で混じり、ねっとりとしていた。

「ミッキー?」

彼女の節のないスーッとした右手が白いかたまりに触れようとした瞬間。真由香は遠く青い空を流れる雲を見ていた。真由香が”真由香”として見た景色はそれが最後だった。彼女の白い首筋からドクドクと鮮血が流れ、ユニクロでランニング用に買った淡いピンク色のTシャツを真っ赤に染めた。

“真由香だったもの”は体をガクガクと不安定に揺らしながらも二本の脚で立ち上がった。サンダルもいつの間にかぬげて、裸足で茅ヶ崎の砂浜にしっかりと立つ。しかし、愛犬に噛みつかれた左首の部分は肉がもげてしまったため、頭は左側に傾いていた。目は開いているものの、黒目は見えない。ねっとりとした汗どころか、唾液を垂らしながら真由香だったものは、帰路につくように街へと歩み始めた。真由香の返り血をあびて赤く染まったミッキーも嬉しそうに唾液を垂らしながら、死んだ後も楽しく散歩を続けた。

茅ヶ崎市立N中学校。この校舎の東北に白い外壁が特徴の公民館がある。竜司とその兄である真太郎と幼馴染の冬樹の3人は公民館の床に座りスマホをいじっていた。午前だというのに公民館の中には光も入らず真っ暗で、3人のスマホとスマホの光に反射した冬樹のメガネのみが光を宿していた。

「だめだ…山崎も既読にならない…」

「僕の家もおとといから誰も折り返しの電話がない」

「LINEニュース、Yahooニュースも”火災”って、どうなってんだよ!そんなわけねぇだろ!クソ!」

「おい、大きな声を出すなよ!」

3人の少年たちは焦っていた。街中を歩き回る凶暴化した住民たち。彼らは屍になった今も自分たちが暮らした街に残る生者を追い回しては噛み付き、仲間を増やしていた。なんとか逃げのびてたまたま飛び込んだ公民館。内側からカギをかけ、モップと箒でドアが開かないように厳戒体制をとりつつ、逃げ込んでから56時間が経っていた。

公民館の中にあったわずかな食料と飲み物を確保し、息を殺して公民館に潜んでいた。生きる屍たちは聴覚や嗅覚が生前よりも鋭く、生者の気配がするとどこからともなく集まってきては、破壊行動を繰り返していた。すりガラス越しに人影が見える。背丈が小さく、白っぽい頭部の様子から老婆のようにも見える。さきほどの竜司の声に反応して近づいてきていたようだった。

「かろうじて水道と電気はまだ死んでない。けど、いつまでもつかはわからん」

竜司の兄であり、いつも冷静に状況を分析する真太郎が再確認するように言った。

「さっき、竜司が言ったように、おそらく外にはここでおきてることが誰にも伝わってない。というか情報操作されているのは間違いない」

竜司は反射的に兄の言葉に切り返した。

「だったら、もう自分たちで何とかするしかないだろ」

冬樹は手垢で視界が悪くなったメガネのブリッジを中指でクイッと押し上げた。冬樹はフーッとため息をついてから、小声でボソボソと話し始めた。

「だけど、今外に飛び出すにしても情報が少なすぎる。第一、ヤツらの生体についての情報がない以上遭遇したときの対抗策がない。一般的なゾンビ映画では頭部を破損させれば動きを止められるけれど、殺傷能力の高い道具がここにはないから改めて調達する必要がある。それを探しているうちに襲われてしまえば、一貫の終わりだ。真太郎は何か具体的な対抗策があるのか?竜司は逃げるにしてもどこに逃げる?この状況で当てもなく動くほうが僕は無謀だと思う。やつらがどこからきて、何が原因でこの街を襲ったのか?他の街には出現していないのか?アイツらといっても元々人間だ。もしも家族や友人が襲ってきたらどうする?真太郎、君は真由香が襲ってきても彼女の首をはねることができるのか?そもそも僕たちの腕力でヤツらを止められるのか?わからないことが多すぎる。死体が動き出すなんて信じられないけど、「死」という漢字は死者の胸から上の残骨を表す「歹(がつ)」と人を表す「ヒ」を組み合わせた漢字だ。古代中国では人間の死体は一時的に草むらに放り捨てていた。そして死体が風化して残った骨を拾って、それを埋葬していた。彼らの中での「死」というのは、拾い集めた骨を拝み弔うことで初めて成立していたんだ。つまり、ただ死んだだけでは死んでいない。死んだと認識した時点で「死」なんだよ。ちなみに英語の”die”ってあるだろ。鋳造加工のときに使う【金型(かながた)】のことを”die cast”って呼ぶんだ。”die”には金型に金属を流し込むという意味もある。それだけじゃなくて、”die”にはサイコロの【さい】という意味もある。”金型”と”サイコロ”と”死ぬ”という3つの意味があって共通点がなさそうに見える。けれど、語源であるラテン語で”die”は(運勢によって)与えられたもの、という意味があるんだ。つまり「死」は運命であり与えられたものと考えていたんだね」

「こんなときに漢字の成り立ちの話してんじゃねぇよ。ごちゃごちゃ言ってたって、わかんねぇもんはわかんねぇんだよ!」

竜司が可能な限りの怒りを表明した。

「このままじゃラチがあかねぇ。俺は茅ヶ崎漁港に行くぜ。あそこならここから最短距離で船に乗って脱出できる。グーグルマップで見たら、ここから400メートルぐらいでいける。途中でヤツらが追ってくることはわかってる。だけど、外部に情報が遮断されている以上助けがくる可能性は限りなく低い」

真太郎が長男らしい落ち着いた口調で付け足した。

「俺は先月免許をとったばかりだけど、船なら動かすことができる。運次第だけど、カギがついたまま停泊している船があればそれに乗ってヤツらが追って来れない隣の市に逃げられるかもしれない」

「だけど、それも”運次第”だろ?何も情報がないのにバカすぎる。ゾンビの生体もわかっていないし、隣の市もどうなってるかわかんないだろ!」

「だったら冬樹だけここに残ればいいだろ。お前はいつもそうだ。何かあるとごちゃごちゃ質問して、文句だけ言って、結局何もしねぇ。お前は自分が”変わらなくてもいい”ことを肯定して欲しいからあれやこれや聞いてくるんだろ?何かやる前にごちゃごちゃ言うヤツは大抵何もやらねぇんだよ。お前のそういうところが昔からむかついてたんだ」

 

外で何かが集まり出す音がした…

 

 

「俺は行く。兄貴、船の操縦は頼んだ」

 

「わかった。なるべく早く走れるように何も持たずにいこう」

 

 

真太郎と竜司は公民館の扉を開け放ち、一目散に駆け出した。

後ろから追ってくる屍たちへの恐怖と全速力で走ることで心臓は破裂しそうだった。不思議なことに竜司たちは死と隣り合わせになっているその瞬間にもっとも強い「生」を感じた。俺たちは生きている。俺たちは生きているんだ。心臓が、呼吸が、生きていることを強く実感させた。ゾンビと同じように目を見開きながら、真太郎と竜司は漁港まで走った。

「船場にはヤツらはいない!!竜司!いける!!」

 

 

次の瞬間…

 

 

彼らは盲点に気づけなかった…

 

 

 

 

むしろ、盲点に気づけなかったことを気づいていなかった…!!

 

 

 

 

 

 

公民館の扉を閉め忘れてきたがゆえに、冬樹は老婆のゾンビに噛まれ、彼らの仲間入りを果たしていたのだった…

 

 

竜司と真太郎はその後、なんとか船を見つけ無事茅ヶ崎を脱出。茅ヶ崎の街は”火災”ということで、街全体を焼き尽くし、不自然な形で処理されてしまった。竜司と真太郎の運命やいかに…

 

 

 

 

 

 

今日のワンポイント漢字のなりたち

死→歹(がつ)+ヒ
歹→白骨化した人の骨、ヒ→人
複葬(再葬)を行う風習から「死」という言葉が成立した

白川静,「常用字解」, 平凡社, 第二版 参照

 

 

竜司が言うように、確かに何かやる前にあれこれ考えたりごちゃごちゃ何か言う人って、結局何にもやらないんだよな。何かに向かって動いた人、踏み込んだ人だけが何かを得ていく。

吉凶を弁ずるものは辞に存し、悔吝を憂うるものは介に存し、震きて咎なきものは悔に存す。

 

何かに迷った時は、勇気をケチらず、とにかく踏み込んでみるしかないよね。

よし、どんどんやろう。

にしけい

 

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